明治・大正・戰前期に福井経済を牽引した起業家や経済人の事績
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明治を代表する豪商で輸出羽二重開拓者
小川 喜三郎
 (おがわ きさぶろう)

 天保七年正月二日、旧足羽郡六条村下荒井農業武盛吉右衛門方に生まれる。万延元年十二月、二五才のとき福井老松中町の生糸商小川家 (小川與兵衛)四女よりと結婚し養子に入った。
 同家は幕末から生糸商、奉書紬の仲買商として知られていたが、彼が養子に入った当時は家業も不振続きで、家運も停滯していた。

 しかし、彼は先進地の視察など経営に熱心で、ことに横浜への出張を通して海外輸出貿易、生糸輸出、絹織物の製織計画も研究していた。
 明治九年フィラデルフィア博覧会に奉書紬を出品し褒賞状と銅杯を受けている。 翌十年の内国勸業博覧会にも奉書紬を出品し、賞を受け、以降何回かこの種の博覧会に出品しており、彼の熱心さが窺える。

 彼の先見性を示すものとして、明治十九年福井市江戸町に設置した福井機業会社 をあげることができる。この年、福井でも羽二重製織の新技術導入の機運が起こるが、未だ製織技術が無いなかでの創業であった。桐生の森山芳平工場の客員・高力直寛が招聘され、福井で初めての羽二重製織講習が開催されるのが翌年の三月であるから、業界のパイオニアとしての彼の面目をしめすものといえる。もちろん福井ではじめての羽二重機業会社であった。
 羽二重製織の普及は、その後、「織工会社」を中心とする士族(官吏)系による普及と、小川喜三郎や松井文太郎、松島清八(ともに二十二年創業) をはじめとする民間の生糸・羽二重商人よる普及と、両輪ですすめられていくことになる。

 しかし、いつの時代も問題は販路の開拓である。明治二十年、喜三郎は自ら福井羽二重を携え、横浜に売り込みに出掛けたものの商談はまとまらなかった 。このため、かねて京・六条通り大野貿易が海外輸出に従事していることを調べており、帰路、京キへ立ち寄り 、飛び込みで店主に掛け合った。店主は喜三郎の熱意にほだされたのか、見本品の商談がまとまり、これを機会に引きつづき追加注文 を受けることとなった。
 喜三郎は、自工場では注文品の全部を製織できないこともあったが、これを契機に、原料生糸を機屋に提供して製織を奨励し、技術普及に努め、 羽二重への転換を推進したのである。
 彼は、福井羽二重の創織者であり、同時に業界の開拓者であった。
 
 二十年代は喜三郎のように、生糸商と羽二重商の兼業者が多かったが、三十年代に入るとその分業化が進み、三二年には生糸商同業組合が結成され小川喜三郎が組長となった。

 また製品の販売も、羽二重商を兼ねた生糸商により行われたが、取引が増加しはじめた二十年代中頃には、羽二重商の問屋・仲買の分化がすすみ、小川喜三郎、黒田与八ら一四人は 、二十四年に「絹盛会」を組織した。

 喜三郎はこの他、明治二三年には福井県蚕糸業組合取締所頭取、二四年には福井県絹織物組合長と県織物界の発展と振興に全力をそそいだ。

 特に、羽二重生産が増加するなかで、製品の品質向上・維持のために、羽二重検査所を設け、自らが所長として積極策に取り組んだ功績はおおきい。
 検査では上、中、下の三等品に区分し、松、竹、梅の証票を貼付した。 これにより福井の輸出羽二重の信用はとみ高まり、海外需要地における声価は著しく向上し たといわれている。

 明治二十七年には、これらの功績により、織物業者として福井市でははじめてとなる緑綬褒章を受章した。

 また、業界有志の手によって、功績を後世に残すべく、明治二九年には足羽山にかの前田正名(注)の撰文による「機業碑」が建立された。
(この碑は、戦前は山田探偵の碑とならんで、現在の足羽山の茶屋付近にあったが、震災で倒壊した。山田探偵碑は相向かいに再建されたものの、機業碑は 現在のところ行方不明となっている。)

 その後も、福井商工会議所議員、福井絹糸取扱所理事長、商品保險会社取締役、物貨運送株式会社取締役、日本絹糸株式会社社長、福井生糸羽二重倉庫株式会社取締役などを歴任し 、同三三年には福井県絹織物同業組合が改組されて、改組後の初代組長となった。

 しかし、まもなく生糸・羽二重の相場が大暴落となり(明治三十三年恐慌)、福井市場も混乱を来たした。この時、多くの機業家が破産を強いられたが、喜三郎もこの影響で多大な損害を蒙り、これを契機に組長を辞任、業界からも引退した。
 しかし、彼が県輸出羽二重の振興策を図り、本県機業の発展に尽力した功績は偉大で、誰もが認めるところであった。
 このため、組長辞任の際には、多年の功労に対して感謝状と金杯一個を贈るとともに、同組合参与に処遇した。

 引退後まもない明治三五年十二月三一日病で没(六七才)。
 彼に先立って死亡した妻(より)、長男(芳右衛門)、次男(庄太郎)の眠る丹生郡糸生村上小川慶円寺に葬られた。

注)前田正名は、薩摩藩の出身で長くフランスに留学し、帰国後、大蔵省・農商務省に入り、その後、野にあって健全な産業育成のためのさまざまな提案を行った。 明治17年に「興業意見」を作成したことはあまりに有名。地方の産業人との交流も深かった。国会図書館に前田正名関係文書(所蔵482点、寄託146点)として保管されている。

注:本稿には既存文献資料に記載のない事項が含まれています。無断転載はお断りします。

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