明治・大正・戰前期に福井経済を牽引した起業家や経済人の事績
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明治後期福井経済界のリーダ
石田 磊 (いしだ こいし)

 石田磊は、明治三十年代から四十年代にかけて、福井商業会議所の会頭を勤めたほか、5年にわたって福井市会議長を勤めるなど、明治後期、福井の行政をはじめ政治、経済と多方面に業績を残した明治人である。
 石田は弘化二年(1845年)11月7日、福井藩士の子として生まれた。幼名は光次郎という。14歳のとき、同じ藩士である赤尾久作の養子となって、赤尾家の家督を継いだ。元治元年(1864)には江戸詰めとなり、慶応元年(1865)には赤尾光次郎から石田姓に戻り岩右衛門と改名、さらに明治二年になると石田?二と改名する。

 廃藩置県が行われた同年、石田は足羽県の出納方付属に任命され、次いで会計寮権少属に選ばれた。4年10月には由利公正の関係からか、足羽県の官吏を辞し東京府の権少属に抜てきされる。しかし、由利とは合わなかったのか、翌5年には帰郷して足羽県に再就労し出納課総会所に一吏員として勤務した。その後、足羽県、敦賀県、石川県の役人を続けた。
 明治前期経済界のリーダーともいうべき伊藤真とは石川県官吏までは同僚であった。伊藤は越前が石川県に吸収され、「越前」が危うくなったため官吏を退任して郷土の振興に努めたのに対して、石田は石川県に残り、官僚として勧業課長や土木課長なども歴任し、同時に郷土福井の発展には絶えず関心を持ち続けたと推定される。

 石田の前半生は武士・官吏生活であったが、そんな石田も23年に及ぶ役人生活を終える時が来た。伊藤真に呼び戻されたのである。

 この後の石田の半生は地元の政界・財界に生きる政経人の生活である。郷土の盟友ともいうべき伊藤真から福井経済の後事を託されたのである。石田は明治23年福井に戻り、11月1日伊藤に代わり福井第九十二国立銀行の支配人に就任、銀行家の道を歩き始める。
 また26年には福井市会議員(二級)の補欠選挙に出馬し当選し、31年まで5年間市会議長をつとめた。その間、30年2月には九十二銀行の組織改変に伴い頭取に推挙され、40年秋まで頭取職の要職にあった。かたや銀行の頭取、かたや市会議長というわけで、当時の石田は福井の政財界に重きをなす最大の実力者だった。

 また、石田は明治二七年に福井商業会議所の特別会員に選ばれている。市会議長を務め、銀行の支配人もしていることから、特別会員に推薦されたと推測される。商業会議所は三六年に新公布の会議所法に基づく福井商業会議所となり、そして、その会頭に石田が選ばれた。
 会頭職は二代にわたり、前半の副会頭は松島清八が、後半は山田大五郎がそれぞれ副会頭として女房役を務めた。この二期の間に、新しい法律に基づく会議所の基盤を固め、活動強化を図った功績は大きい。

 石田は豪放、洒脱な人柄だったと言われる。いい伝えによると、家には常時四斗だるを備え、酒客を歓迎し、得意の素人義太夫を語り聞かせたという。
 一方、経理面には強く、家族が節季の勘定書でそろばんをしていると、暗算で先々に計算し、ほとんど誤らなかったいわれる。
 また、若いころから宗教心が強く、西本願寺本山、福井別院、藤島の超勝寺などに相当の貢献をしていた。仏説阿弥陀経を写経した掛け軸が石田家の家宝として残されているのもこのためである。

 石田は福井政財界人の重鎮として役職も多く、主なものには福井農工銀行取締役、福井預金銀行監査役、福井商品保険株式会社専務、福井生糸株式会社取締役、福井絹織物輸出株式会社相談役、福井絹糸株式会社取締役、福井生糸羽二重倉庫株式会社取締役などがある。

 活動の中心は福井金融界の覇王と言われた九十二銀行の頭取職で、伊藤以来の殖産興業の志を棄てることなく、織物金融など機業家や商人への事実上の無担保による積極融資に応じてきた。このため、33年の生糸暴落・恐慌の影響をもろに受けることとなり、経営に深刻な影響を与えた。 (写真は九十二銀行跡地現況)
 しかし、この危機は石田頭取の個人的信用で、何とか乗り切ってきたもの明治40年病に倒れ、経営を見ることができなくなると、残った経営陣で銀行業務の継続は難しく、直ちに 経営危機が表面化し、11月に休業、破綻に追い込まれた。

 明治42年2月21日63歳で死去。磊の家を継いだのは外孫にあたる養子の和外で最高裁事務総長、最高裁長官を歴任した。
 

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