明治・大正・戰前期に福井経済を牽引した起業家や経済人の事績
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「万年会頭」といわれた福井を代表する羽二重商人
黒田 與八
 (くろだ よはち)

明治・大正・昭和の三代を生き抜いた著名な羽二重商人であり、家業の呉服商から新時代の羽二重仲買商へ転換する先取性もあった経済人である。
 黒田の先祖は福井の旧米町で呉服商を営む「大米屋」と称する旧家であったが、分家し元呉服町に呉服商「米与」を開いたという。本人はそれから三代目に当たり、安政元年(1854)11月の生まれ。初めは家業の呉服商に精を出していたが、明治20年に大きな転機を迎える。
 このころ、桐生・足利から羽二重が米国へ輸出されはじめ、その需要が高まり、生糸や傘地・ハンカチーフの販売を通じて横浜の外国商会と取引のあった粟田部の坪田孫助など仲買商から羽二重輸出の情報がもたらされ、福井でも羽二重製織の機運がたかまった。
黒田与八のもとでも、以前黒田商店に勤めていた宮田某が横浜の輸出羽二重商に勤め、店の関係者とともに来福し、福井で輸出羽二重を織って欲しいとの旨を依頼したのもこの頃である。黒田は相当悩んだ末、輸出織物の将来性を見込み、家業の呉服から生糸織物の商売へ転業を決意したといわれている。
 20年3月には、桐生の森山工場の織物技術研究家であった高力直寛が招聘され、「織工会社」で羽二重製織の講習会が行われ、技術修得が3週間という比較的短期間終了していることから、福井の技術で十分対応できることを見越しての決断であったかも知れない。とはいえ、当時の福井ではまだ奉書紬やハンカチ地ぐらいしか織っておらず、羽二重はまだまだ未知の分野であった。このため黒田は織物工場を歩き回って、羽二重を織ってくれるよう一軒一軒頼まざるを得なかった。これが、福井輸出羽二重の始まりだといわれる。
 輸出羽二重の生産額は20年下半期に五千疋、21年上半期には八千疋、同下半期には一万疋と増加していく。黒田は輸出羽二重の生産増加のため、機業家たちのために奉書細からの切り替えを勧め、一方では精練業の開業を激励するなど、関連部門企業育成による産地化にも意を注いだ。
 また取引の安定のため、横浜にあった外国商会に対し、福井の土地に出張所を設けるように呼びかけ。明治23年には元呉服町に外国商館ローゼン・ソール商会の福井出張所を開設させた。これが契機となり、その後堀越商会、メーソン商会、コーンス商会の開設につながった。また羽二重商問屋の小川喜三郎とともに絹盛会を組織し業界の発展にも寄与した。
 その後黒田は、29年には羽二重の販売を取りやめ、生糸の売り込みに当たる生糸問屋になった。この間屋は機業家と生糸メーカーとの間に立つ地場商社だが、当時の福井で代表的な存在だった。
 経済活動面では、商工会議所との関係も見逃せない。黒田と商工会議所との関係は、明治40年10月に議員に当選したことに始まるが、その実力は最初から副会頭に選ばれたことでもわかる。その後も再選され、44年の2月には会頭に選ばれ、以来連続四期にわたって会頭職を勤め、「万年会頭」と呼ばれた。会頭を退いてからも、大正14年10月に特別議員、昭和2年5月には会議所の顧問に就任にしている。
 黒田は政治面では全く登場せず、市議にも県議にもならなかったが、人脈の上で福井の業界の大物・松井文太郎派に属し、しかも筆頭参謀格ともいわれた。松井派には西野藤助、安本吉次郎らがいるが、本人は政治の世界とは一定の距離を置いていた。
 黒田は性格が穏やかで、真宗三門徒派の信仰心のあつい人格者でもあったが、非道を許さない気骨ある人でもあったといわれる。商売に先取性はあったが、家政では手堅く堅実、質素であった。反面公共面での寄付行為は人一倍熱心であった。
 黒田の主な要職には、福井商品保険株式会社取締役、福井生糸株式会社取締役、福井生糸羽二重倉庫株式会社取締役、北陸運送保険株式会社取締役、大和田銀行取締役、福井生糸商同業組合長(後名誉顧問)などがある。
 昭和11年11月82年の天寿を全うし死去。
 

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