明治・大正・戰前期に福井経済を牽引した起業家や経済人の事績
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人絹王国福井のTOPにあった経済人
西野 藤助
 (にしの とうすけ)

 西野藤助は明治十一年十二月、今立郡岡本村定友の西野市兵衛の四男として生まれた。小学校を卒業すると、横浜の生糸問屋に見習奉公に出るも、間もなく家庭の事情から帰郷し、長兄の指示で生糸買いに飛び回った。商売先は福井、横浜それに四国、九州にまで及び、生糸だけでなく麻糸まで取り扱った。
 明治三一年に鯖江三六連隊へ入営、三四年に除隊するが、藤助は長兄の市兵衛が福井市内佐佳枝中町(順化一丁目)に設けた店に入り、商売を再開する。この店は暫くして合名会社に組織変更したものの長兄や次兄が手を引いたため、藤助 は独自で生糸や羽二重の委託販売に乗り出した。三五年福井市大火で店舗を燒失したが十一月には再建している。

 明治三七年、二七歳のとき、日露戦争のため応召し金沢第九師団へ入隊、 この時金沢で知り合ったのが生涯の盟友となる西田豊吉である。

西田は大聖寺生まれで、後の人絹取引所専務である。
大正元年に東京商業興信所福井出張所所長として来福し、旧交を温め、その後は西野と行動を共にする。

 除隊後の四二年には金沢の堤町へ店舗を構えた。また、津田式力織機の創始者、津田米次郎が経営していた東京の工場が経営難となったので、西野が出資して工場を金沢へ移し、津田式力織機を完成させた。金沢では、同工場(後の北陸機械工業会社)の近くに、大谷撚糸工場も設置した。

 西野は福井でも多くの工場の創設に参加をする。大正五年には福井撚糸株式会社を設立、モスリン織物の製織を目指し十一年に福井織物会社、十二年には福井精練加工を設立。同じ年今立 郡の栗田部に設けた日ノ出織物では八百二十台の力織機を 揃えた。また大正十四年に発足した福井染色(のちの福染興業)にも関係している。十五年には福井市の山奥に福井紡績(大和紡績福井工場の前身)を資本金二百万円で創設している。

 対外活動面では、大正八年米国で開催された国際労働会議に松井文太郎(衆議院議員)とともに出席、昭和八年インドで開催された日印会商では政府代表 を努めて出席した。

 西野藤助の大きな功績の一つに、福井人絹取引所の開設が挙げられる。これは福井レーヨン商組合の理事長の立場から 、長年オッパ取引といわれる独特の取引を改め、人絹の正常な取引方法を考えた結果として、創設・運営に思い至ったものである。昭和六年三月に開催のレーヨン商組合総会で、取引所が提案され、西野は創立委員に推された。同年四月に商工大臣へ設立認可申請書を提出、福井の業界を動員し政治家に陳情を重ねて猛運動。その結果、昭和六年十二月に内認可、昭和七年五月に 、日本で初めての待望の人絹取引所開所となった。
 人絹会館の建設を進めたのも、西野である。昭和八年秋の陸軍特別大演習をきっかけに、織物王国福井のシンボルとして取引所を備えた大ビル建設を提案したのである。会館の敷地には、元勧業銀行福井支店跡の佐佳枝中町地籍を人絹取引所が買収。建設資金として、西野は三十万円を寄贈し、東京や大阪まで出かけ資金募集に 奔走した。
 人絹会館は鉄筋コンクリートづくり、延べ一〇五〇坪の堂々たるモダンなビルだが、完成を待たずに西野は永眠する。

 西野は昭和八年の秋、松井文太郎の死去に伴い福井商工会議所の会頭に就任したが、僅か其の職にあること一年で、翌九年九月に病をえて死去した。五七歳。
 死期が迫った藤助は盟友西田豊吉や弟の西野幸助に細かい指示を与え後事を託した。


*「人絹王・西野藤助の生涯」を別途作成予定です
 

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