| 染織の先駆者達 | |
明治期、日本の殖産興業のなかで染織の発展に寄与した
先駆者達の事績を紹介しています

| 山岡次郎 | |
染織の父ともいうべき事績を残した明治の化学者、技官で、はじめは大学などで教鞭をとっていたが、殖産興業に向けて技術者教育の必要性、職工養成の必要性を痛感し、次々と学校を創設、さらには明治の大工場「日本織物会社」の創設を手伝い、晩年は織物の輸出と品質改良努めた
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| 中村喜一郎 | |
| 幕末の天才科学者の子として生まれた喜一郎は舎密(化学)関係で山岡の同志でもあった。事故で父が廃人となったあとも佐野常民の支援のもと、明治6年に開催されたウイーン万国博に佐野常民に同行、そのおり、染色伝授生となりドイツ、オーストリア、イタリア、フランスで一年間洋式染法を研究、帰国後京都、八王子などで洋式染法を指導した
。山岡が創設した大日本織物協会の幹事なども務めた。
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| 佐倉常七 | |
| 西陣の織匠として東京遷都後の京都経済の復興、西陣復興に織り技術の面で大きな役割を果たした。 明治五年十一月京都府の伝習生としてフランスのリヨンに派遣され、翌六年ジャガード・バッタンなどの洋式織機を携え帰国。7年京都博覧会で初運転、実演を行う。後、京都府の織工場や染織学校教授となり、新織法の普及につとめた。
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| 森山芳平 | |
| 桐生の機業家。早くから織物改良に努め、明治十年の内国勧業博集会に出品されたジャカード機を購入して紋織試作に努めるとともに、染色改良にも取り組み化学を学ぶとともに、十七年には農商務省技師山岡次郎を招いて染色法の改良に努めた。二十一年にはアメリカからジャカードを導入して宮内省御用の窓掛を製織した。 内外の博覧会にしばしば出品して多数の賞を受け、桐生織物の名を高める一方、自身または弟子を各地に派遣して技術指導を行った。高弟高力直寛の福井派遣・羽二重講習はあまりにも有名で「羽二重王国福井」の生みの親となった。その他米沢、福島などの羽二重業勃興にも係わった。
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| 高力直寛 UP | |
明治の第1級織物技術者。羽前松山藩の家老
屋代一族の家に生まれ、高力家に養子に入り、後、桐生に移り森山芳平に師事。その才が認められ、西陣の佐倉常七のもとで、ジャカード織物の習得、さらに森山の指示で、福井に赴き現地では織り技術のなかった羽二重織を無償で講習。これが羽二重王国福井誕生のきっかけとなった。後年、教育界に転じ東京高等工業学校(現東京工業大学)の教授として後進の育成にあたった他、織物技術の審査員なども努めた。
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| 村野文次郎 | |
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羽二重王国・福井の先覚者で、自ら先進地の技術を福井に導入し、機業家としても成功した有力な業界人である。織物福井の第一歩は、明治九年の伝習生派遣に始まる。村野は洋式染色法研究のため京都府立染色伝習所(染殿)へ派遣され、山岡の盟友中村喜一郎に師事、その後東京大学で化学や染色を講義していた山岡次郎に師事、帰福後、その技術普及に努めた。桐生の著名な織物事業家森山芳平と交渉し、高力真寛を福井に招き、羽二重織物の第一歩を築いたのも彼である。 |
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