織の駆者達
 

明治期、日本の殖産興業のなかで染織の発展に寄与した
先駆者達の事績を紹介しています

 

 

山岡次郎
   織の父ともいうべき事績を残した明治の化学者、技官で、はじめは大学などで教鞭をとっていたが、殖産興業に向けて技術者教育の必要性、職工養成の必要性を痛感し、次々と学校を創設、さらには明治の大工場「日本織物会社」の創設を手伝い、晩年は織物の輸出と品質改良努めた

山岡次郎の事績を見る
職員録で見る山岡次郎
嗚呼山岡次郎逝く

山岡次郎著  『初学染色法・木綿染之部』(序文・目次)PDF
山岡次郎著 『初学染色法・木綿染之部 』( 巻末カラーサンプルPDF
山岡次郎著 『初学染色法』 広告
山岡次郎著  『染色集寶』 広告チラシ
山岡次郎著  転居広告、『染色集寶』発刊遅延 広告チラシ
山岡次郎 帰国報告 「会員諸君に告ぐ」PDF NEW
明治22年9月、山岡は長期欧米出張から帰国する。帰国の第一報を「大日本織物協会報告」(第35号)に載せている。この出張中山岡は1889年のパリ万国博覧会で出品された人絹を見出し、帰国直後に日本で初めて機業家に紹介することになるのだが、この点については別にとりあげる。 なお奥山秀範「戦前期における福井県企業の海外市場アプローチ」の注22、注23(福井県立大学・奥山研究室)を参照されたい。
山岡は各織物産地で帰国報告会を開催するとともに、出張中に見聞した欧米織物事情を断続的に「織物協会報告」に掲載している。
山岡次郎「工芸の奨励に関し将来望みを属すべき事項」(正・続)PDF NEW
山岡次郎といえば明治を代表する染色技術指導者であるが、それだけではなく、東京職工学校(現東京工業大学)や足利、伊勢崎、桐生、八王子などの各染織学校の創設など工業教育分野でも大きな指導力を発揮する.。守備範囲は広く、明治初期の美術団体「龍池会」(後の日本美術協会)のメンバーでもあった。山岡は、高橋是清を農商務省に推薦、高橋が商標登録業務に従事するきっかけを作った人物で、この論文 (『龍池会報告』25.26号、明治20年)は意匠条例選定前後の時期に執筆されていおる。山岡の指導した足利の機業家が意匠登録第一号となり、初期の意匠登録で足利産地が大きなウェイトを占めるのは偶然ではないのである。
 

 

中村喜一郎
   末の天才科学者の子として生まれた喜一郎は舎密(化学)関係で山岡の同志でもあった。事故で父が廃人となったあとも佐野常民の支援のもと、明治6年に開催されたウイーン万国博に佐野常民に同行、そのおり、染色伝授生となりドイツ、オーストリア、イタリア、フランスで一年間洋式染法を研究、帰国後京都、八王子などで洋式染法を指導した 。山岡が創設した大日本織物協会の幹事なども務めた。

中村喜一郎の事績を見る 
嗚呼中村喜一郎逝く

 

佐倉常七
   西陣の織匠として東京遷都後の京都経済の復興、西陣復興に織り技術の面で大きな役割を果たした。
 明治五年十一月京都府の伝習生としてフランスのリヨンに派遣され、翌年ジャガード・バッタンなどの洋式織機を携え帰国。7年京都博覧会で初運転、実演を行う。後、京都府の織工場や染織学校教授となり、新織法の普及につとめた。

佐倉常七の事績を見る

 

森山芳平
   生の機業家。早くから織物改良に努め、明治十年の内国勧業博集会に出品されたジャカード機を購入して紋織試作に努めるとともに、染色改良にも取り組み化学を学ぶとともに、十七年には農商務省技師山岡次郎を招いて染色法の改良に努めた。二十一年にはアメリカからジャカードを導入して宮内省御用の窓掛を製織した。
 内外の博覧会にしばしば出品して多数の賞を受け、桐生織物の名を高める一方、自身または弟子を各地に派遣して技術指導を行った。高弟高力直寛の福井派遣・羽二重講習はあまりにも有名で「羽二重王国福井」の生みの親となった。その他米沢、福島などの羽二重業勃興にも係わった。


森山芳平の事績を見る

 

高力直寛 UP
   治の第1級織物技術者。羽前松山藩の家老 屋代一族の家に生まれ、高力家に養子に入り、後、桐生に移り森山芳平に師事。その才が認められ、西陣の佐倉常七のもとで、ジャカード織物の習得、さらに森山の指示で、福井に赴き現地では織り技術のなかった羽二重織を無償で講習。これが羽二重王国福井誕生のきっかけとなった。後年、教育界に転じ東京高等工業学校(現東京工業大学)の教授として後進の育成にあたった他、織物技術の審査員なども努めた。

高力直寛の事績を見る
高力の詳細な事績ならびにその生涯については奥山秀範「福井に羽二重織を教授した明治の偉才・高力直寛」福井県立大学・奥山研究室)を参照されたい。

 

村野文次郎
 

 二重王国・福井の先覚者で、自ら先進地の技術を福井に導入し、機業家としても成功した有力な業界人である。織物福井の第一歩は、明治九年の伝習生派遣に始まる。村野は洋式染色法研究のため京都府立染色伝習所(染殿)へ派遣され、山岡の盟友中村喜一郎に師事、その後東京大学で化学や染色を講義していた山岡次郎に師事、帰福後、その技術普及に努めた。桐生の著名な織物事業家森山芳平と交渉し、高力真寛を福井に招き、羽二重織物の第一歩を築いたのも彼である。

村野文次郎の事績を見る
欧米絹織物状況視察報告(明治30年・農商務省商工局臨時報告) PDF NEW
  同行した杉田定一の報告書はこちら PDF NEW
 

   

TOPへ戻る


Copyright (c) 2002 −2010 H.Okuyama. All rights reserved.
無断転載はお断りします。

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO