特報 嗚呼 中村喜一郎君逝く
 
 

大正四年六月、染織業界誌に掲載された訃報記事

 中村喜一郎君は佐賀藩士なり。幼にして彗悟なり、と聞けるが、君の世に知られたるは明治六年に始まる。此時左院にありしが佐野常民氏の知る所となり、伴れて奥太利博覧会に出張して、次で独逸に留学を命ぜられ専ら応用化学、殊に染色法に就いて研鑽する所あり。在留一年にして帰朝するや京都府に聘せられ、次で工部、大蔵の両省に歴任す。

 明治二十年八王子織物組合が染織学校を設立するや押されて校長たり。職にある事十四年、此間子弟を薫陶して斬新の技術を授け、又組合の為に力を致し八王子織物の今日ある君が功少しとせず。
 同三十五年なりしか越後十日町染織学校の起るや、亦押されて之が校長となる。茲にも職に留まる事十余年、其功績は八王子に於ると同じきものありしも、同校廃校の悲運に際会し職を辞せられたるは遺憾の事に属す。

 爾来閑地に就き斬く傾かんとする健康の快復に勤められつつありしも、終に胃癌のため立つこと能はず、鎌倉より居宅に還り本年五月十一日を以て帰らぬ途に出で立たれぬ。
思うに君の一生は殆んと染色学の為に盡され外に伝ふべきものあらず。其の洋行せられたるは維新梶Xの時に属するのみか、応用化学の専攻は実に都人中嚆矢のものたりしなり。
君が行年六十六に過ぎず、尚ほ成すあるの材を懐き早く幽明赴く、悲しまざるべけんや。

 令息光治氏夙に大学法科を出て職に朝鮮銀行にあり。
 君以て瞑すべきなり。


 *一部句読点や改行、旧字体を変更しております。

内容の誤りについて
この記事の内容には誤植(子息名は光治ではなく光吉が正しい)のほか、幾つかの誤りが含まれています。明治六年に佐野常民が中村を見出したのではなく、佐野はもともと中村の父親の代わりみたいなもの、また、八王子織物学校へは、創立者山岡次郎が去って途方に暮れる地元の人達の強い要請で、山岡が中村を推薦したものである等々。
これらの点に注意して利用下さい
 

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染め織りの先駆者達− 中村喜一郎


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