染織の先駆者達
高力直寛(こうりきなおひろ 明治の織物技術者)
慶応元年5月5日、羽前・松山藩(山形県飽海郡松嶺町)生まれ。
実父は家老の屋代氏の一族で、幕末松山藩の用人を務めた敬兵衛(一時は家老も務める)、四男として生まれるが、親戚の高力家当主が幼い女児を残して没したため、 明治13年高力家の養子となり、名を俊道(としみち)から直寛(なおひろ)と改める。
後に、高力の遺児(ぶん)と正式に結婚した。
明治4年廃藩置県、藩籍奉還に際し、養蚕・機織で自活を決意したのが出発点。当時桐生が内地織物で名を馳せ、また、桐生の地が旧藩時代松山藩の領地で陣屋も置かれていた縁もあり、この地に移る。
安楽土村の森山芳平方(桐生町安楽土140番地)に入門することになったのは明治15年11月のことである。
修行2年目となる明治17年には、群馬県から織工技術で早くも一等賞を授与されている事実からも、技術の高さが伺い知れる。
高力は森山家に来てから、芳平の進歩的な染織指導を受ける傍ら、桐生新町の紋屋笠原才四郎について本邦古来の織物意匠図案やその画法を習得し、後の研究者・指導者としての素養も身につけた。
明治19年3月、森山の命で元福井藩士で機業家の村野文次郎の紹介状を持参し、西陣佐倉常七の元に入り、ジャカード使用法、仏国織物術の実地研究も経験した。
明治20年3月、村野と森山との約束に基づき、西陣佐倉の下を辞して福井に入り、毛矢町の織工会社において三週間講習を行い、羽二重の製織技術を伝授した。
これが福井における羽二重興隆の大いなるきっかけとなる。その後、一旦桐生へ戻り、森山を援けるとともに、技術向上に努めた。
山岡次郎が創設した東京職工学校(現東京工業大学)は、明治23年東京工業学校へと改組、学科の再編を行い、染工科に機織科を増設し、染織工科を設置した。このため織物技術教育者を必要としていた手島誠一校長は、学校創設者であり且つ友人で染織の第一人者でもある山岡次郎に相談。福井における高力の羽二重講習の成果を聞いていた山岡は、高力を手島校長に推薦。この結果、高力は9月に東京工業学校で染織工手に採用され、教育界に転じ、織物技術の教育にあたる。
明治26年助教授となり、その後フランス、ベルギーなどに三年間海外留学。
明治34年8月、東京工業学校は東京高等工業学校と改称すると教授に就任。各地から上京した学生に実践教育を行い、多くの有能な技術者を育てた。
この間、大日本織物協会の理事、東京をはじめ各地で開催される織物品評会の審査委員を務め、織物産地の指導にあたった。
明治43年5月、東京高等工業学校教授を退官し、明治43年12月、群馬県立織物学校校長、桐生の第八高等工業学校(現群馬大学工学部)創立委員となり、第二のふるさと桐生への恩返しをした。
大正6年5月には、京都市染織学校校長、兼京都市染織試験場場長に就任、後進の育成、西陣織物の指導に従事した。退任後は京都織物の技術顧問にも就任している。
福井県には、その後、明治35年福井市で開催された第7回北陸地区実業大会に技術審査委員として、また大正10年福井絹織物同業組合35周年式典に羽二重功労者兼来賓として来福している。
昭和12年6月11日 京都にて没。
(写真は晩年の高力夫妻)
【主な著書、論文】
「織物集覧」その他論文多数*本記載内容は既存の文献・資料と相違しています。
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