織の駆者達
 
   

森山芳平(もりやまよしへい 明治の桐生機業家)

 明治時代の機業家(森山機業場経営)。安政元年(一八五四)正月二十三日、森山芳右衛門の子として上野国山田郡今泉村(群馬県桐生市今泉)に生まれる。幼名荘三郎。幼くして天然痘を患い一眼を失う。十五歳から父に就いて機業に従事したが、岩倉使節団が持ち帰った織物見本の精巧さに驚き、これを機に織物改良に熱意を持ち、染色の改良に力を注ぎ、その生涯を織物業発展に尽くした。

主な事績

 明治十年(一八七七)の内国勧業博集会に出品されたジャカード機を購入(桐生では初めて)して紋織試作に努めた。また前橋に医学校が設立されると、小山健三助教授のもとに毎土曜日に化学を学習するため桐生より九里の道を往復し、化学染織技術の習得に努め、明治十七年農商務省技師であった山岡次郎を招聘、桐生足利地方に化学染色法を普及せしめた。
 同十九年には桐生織物講習所を設置し染織技術者の育成に力を注いだ。

 明治十八年の繭糸織物陶漆器共進会に山岡次郎の推薦で審査官になり、全国の織物技術の向上に意を注ぐとともに、羽二重その他絹織物の輸出を開始し、また国内各所の博覧会、共進会に出品して、賞を受けること数十回、海外の世界博覧会にも出品して桐生織物の名声を輝かした。

 また芳平自身や弟子の派遣など福井、米沢、入間、福島の技術指導を行い多大な貢献をした。門人、弟子の育成にも積極的で全国から伝習生を受け入れ献身的に織物の技術教育を行った。
 明治の第一級織物技術者であった高力直寛はこの芳平の高弟で、東京高等工業学校教授、群馬県立織物学校校長、京都市染織学校校長、京都市染織試験場初代場長を歴任し、後進の育成にあたった。遅れて出発し、やがて桐生を追い抜く「羽二重王国福井」は森山芳平と高力直寛なくしては存在しなかったのである。

 二十一年に宮内省織物御用を拝命し、佐羽喜六を通しアメリカからジャカードを導入して御用の窓掛を製織、奉納した。紋羽二重の流行に加え、これによって桐生でジャカード導入が盛んになる契機を作り出したのである。
 また、ジャカート使用の推進とジャカートの桐生での製造についてもこれを機会に支援に乗り出している。

 二十五年その功により緑綬褒章を下賜せられた。三十五年には東宮殿下が芳平の織物工場を台覧した。

 明治二十八年のシカゴ博覧会は、日本文化の海外紹介のため、政府も積極的に参加した。芳平は評議員となり、工芸品の出品を依頼され、「花卉図卓被(花卉模様緞子卓被)」の題でテーブルクロスを作成出品した。これは現在でも国立 博物館に残っている。

大正四年(一九一五)二月二十七日、六十二才で没。
法名は興知院芳徳真道居士。墓は桐生市東二丁目の観音院。

*写真撮影は森山家現当主亨氏に多大なご配慮を頂きました。

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