織の駆者達
 

村野文次郎(むらのぶんじろう 明治の機業家)


 羽二重王国・福井の先覚者で、自ら先進地の技術を福井に導入し、機業家としても成功した有力な業界人である。

 嘉永2年(1849年)福井藩士族に生まれるがその出自は不明。同じ福井藩士族村野近良の養子となる。このため近良は実子を廃嫡した。明治84月義父となった近良が敦賀県官吏権少属となったり、戦災に遭うまで村野家の蔵には銘刀類や書画骨董も多数残っていたとされるが、文次郎の養子縁組と何か関係があるかも知れない。文次郎は最後までその出自を村野家の親戚筋にも明かさなかったという。
(東京では、旧姓を伊藤と自己紹介したとされるが、村野家ではその事実を確認していない)

 後、近良の長女と結婚。廃嫡された弟も後、全国で織物の指導にあたるなど、義兄の文次郎の仕事を手伝った。

主な事績

 織物福井の第一歩は、明治8年に京都勧業場(織殿)への織物伝修生(細井ジュンなど2名)派遣に始まる。このころ福井は敦賀県と称していたが、当時の勧業課長伊藤真のもとに、米国留学から帰国した同じ福井藩士出身の山岡次郎より染色技術の重要性の情報が伝えられたと推定される。また、京都にあらたに染殿が設置され、教師として山岡の知人で当時第1級の化学染色技術者村喜一郎が派遣されたことも伝来し、伊藤課長は染色技術者の伝習生派遣を決める。
 このため明治9年、村野は洋式染色法研究のため京都府立染色伝習所(染殿)へ派遣されることとなった。染殿では中村喜一郎に師事したが、染色だけでなく当時織殿で教師を務めていた佐倉常七とも親しくなり、製織技術やジャカード織機も習得した。また大工荒木小兵宅に下宿したことから荒木と親しく、荒木小兵にジャカード機の複製を勧め、一部部品製造を手伝うなど、この分野でも大いに名を馳せた。

 その後、派遣事業が打ち切りとなるものの、村野だけは、留学後は東京大学で化学を講義し、染色工場を起こしていた山岡次郎のもとに引き続き派遣され、染色を研究。帰福後、その技術普及に努めた。

 明治10年4月、士族14人が出資して福井毛矢町に「織工会社」が作られ、義父近良も参加し社長に就任、綾織、ハンカチーフの製織に乗り出した。文次郎も 、帰福後はこの会社の社員として織物振興に努めた。

 明治10年代後半、羽二重の需要が高まるなか、福井にはその技術がなく、関東出張の村野文次郎に技術者招聘の依頼がなされた。村野は恩師で東大教官から農商務省技師に転じていた山岡に相談して、森山芳平を紹介され る(森山は当時染織の第一人者として、官界や業界に影響力をもっていた山岡技師の推薦で、前年に全国区デビューを果たすなど、山岡と密接に交流していた)。

 桐生の著名な織物事業家森山芳平との交渉の結果、高弟高力直寛を福井に招聘することにこぎつけるが、この時、森山が出した条件は高力に西陣ジャカード織の技術も習得させたうえで、福井に派遣するというものであった。村野は西陣織物の第一人者佐倉常七のもとへ紹介状を書き、1年西陣で修行の後、20年3月高力は福井に入り、3週間無償で羽二重講習を行った。これが羽二重王国福井の出発点であり、これまでの技術と人脈の蓄積がなければ実現しえないという意味で福井羽二重の第一歩を築いたのはまぎれもなく文次郎であった。

 文次郎は単なる技術者というだけでなく、羽二重製織の機業家としても、福井産地の隆盛に大いに貢献した。特に京都や東京での伝習生時代の交遊を基礎にして、全国の機業家に知人が多く、積極的に京都、東京にも出かけている。

 明治296月6日県織物組合が、市場調査のため杉田定一とともに村野文次郎を米国、ヨーロッパに海外市場調査に派遣、12月杉田帰国後もドイツなどの視察を継続して翌年帰国。

 組合の役員や全国の織物協会の地方委員を長らく務めたほか、福井商業会議所副会頭として地域活動や市政にも積極的にかかわり、商業会議所全国連合会にも出席したりしている。織物製品では何回か展覧会で入選し、明治334織物展覧会では「綾羽二重2帖」が東宮買い上げとなった。

 明治42年9月、東宮時代の大正天皇が福井行啓の際、殖産興業の功労者として御召に預かっている。

 大正8313日 福井自宅にて没(67才)

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「威あって猛からず−村野文次郎」を今後作成予定です
(時間がかかると予想されますがお待ち下さい)

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