史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■



賀口御門 跡(かがくちごもんあと 福井市松本2丁目)
旧北陸道の名残、福井城下の北の備え

 

 井市内を歩いていると、かつての幹線道であった北陸道の名残が案外残っている事に気づかされる。江戸期の北陸道は九十九橋で足羽川を渡り、呉服町、筋違橋を渡り東に折れ、そのまま東進し、松本下町で北に転じ、加賀口へと通じていた。現在の福井市街地図と江戸時代の福井城下図を見比べると 幹線道路や流れは新道に移行したが、かっての北陸道そのものは道路の幅などに変更がくわえられているものの、一部を除き多くの部分で一致し、今も使われている。
 呉服町通りは、旧北陸道がそのまま現在の通りとなっており、その反対の九十九橘から南も西木田のあたりまで現在の公園通りが、旧北陸道と一致している。南の木田銀座商店街の通りも、北陸道そのままで、みのり一丁目の世直し神社には、りっばな一里塚跡の碑がたっている。ただ、筋違橋を渡り東に折れ、東進し、松本下町で北に転じる 部分、現在の松本通りは一部には旧道の跡が残っているもの戦災・震災後の都市計画で大幅に改修されている。
 それでも福井がかつて城下町であった名残は少なくない。

 賀口御門跡も、かつての城下の名残で、名前の通り加賀百万石前田家への備えとして築かれた。築いたのは、徳川家康次男で福井藩祖結城秀康。慶長六年(1601年)秀康は越前68万石に封ぜられると、福井城下の整備を急ぎ、特に当時徳川家にとって最も警戒すべき加賀 藩へ通じている北陸道の北の備えとして加賀口に堅固な門を築いた。


 賀口御門のあったところは、現在の町名でいえば、松本2丁目あたりで 、今、そこには瓦屋根のついたりっばな碑文が立っており、門の由来について詳しく説明されている。
 その碑文には、御門の当時の様子も描かれていて、この地には門を中心に三方を囲む形で濠がめぐらされ、内側には馬だしが設けられていたとあり、この門を中心に東西に長く、壕と土居が築かれていたとある。
 今は福井市の街中にあるこの地も、福井城下の北の端であり、そこから先は吉田郡となっていたわけで、現在の様子からはちょっと想像できない。


 
文の前を流れる川 (芝原用水分流) は往時の濠の名残である。
 現在の地にはかつての門の姿を偲ぶ様子はないが、濠の名残の川の流れを眺めていると、街道を行き来した旅人たちの足音が聞こえてくるような錯覚をおこす。ちなみに、ここから、さらに旧北陸道沿いに北へ200m程すすむと、左側にある喫茶店の側に一里塚跡の碑 (松本荒町一里塚) を見つける事ができる。

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