史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


治天皇浅水御小休所 (福井市浅水二日町)
今も残る明治帝巡幸の休憩所

     
 井市南部、鯖江市との境界付近に位置する浅水地区は、古くから北陸道の宿場町として開けていた。特に、朝六つ橋を中心とした一帯は、歴史的にも相当古く、橋の名は、「枕草子」をはじめとして、西行法師の歌や 「太平記」、そして芭蕉の「奥の細道」と、その名が登場する史書は枚挙にいとまがない。
 現在の朝六つ橋は、コンクリートの近代的なものになっているが、周辺の町並みは歴史の積み重ねを物語っている。その朝六つ橋をわたって十m程南下すると、右手に「明治天皇浅水御小休所」とかかれた石柱が立っているひときわ歴史を感じさせる二階建て切妻造りの建物(池田正頒氏宅)が見えて来る。


 本の社会制度に大変革をもたらした明治維新は、各地で旧士族の頑強な抵抗もあり、争乱や騒擾が頻発し、社会的にはまだまだ不安定な時期であった。
 事態を憂いた明治政府は、人心の安定のため明治帝の日本各地への巡幸を挙行する。その一環として明治十一年には北陸道を巡幸、当然福井県(当時は石川県の一部)にも巡行し、各地で休憩や宿泊をされている。これら巡幸の軌跡は、今も石碑や記念碑として旧街道沿いに残されているが、建物そのものはその後の震災や戦災など諸般の事情によって失われ、あるいは取り壊されたものが殆どである。

 ころが、浅水小休所であった池田氏宅はいまも当時のままで残され、間取りも変わらず、往時の雰囲気を今に伝える貴重な存在となっている。
 小休所にあてられた 池田彌織家は、明治七年六月一日には麻生津郵便取扱所となっており、維新後は、新為政者と関わりが深かったのであろうか。

 治帝が浅水に入ったのは、記録によれば、明治十一年(一八七八年)十月八日で、福井市内の行在所(宿泊地)であった東別院を午前七時十五分に 出発、北陸道を南下して午前八時三六分浅水小休所着となっている。
 正面玄関は、当時郵便取扱所の事務所となっていたためであろうか、写真の説明にあるとおり、石柱の横の庭入り口から入り、家屋の横に新設した張出し玄関を使って、玉間へと入った。
 三十分程度休憩の後、午前九時二分には次の小休所である鯖江の惜陰小学校へ向け出発。随行には右大臣岩倉具視、参議大隈重信等といった当時の重職の名前が見える。

 田氏宅には、当時門先に置いた「御小休」と書かれた立札や、記念品等が残されている。 また、玉座となった部屋には松平春嶽公より送られた直筆の篇額が飾られており、往時の雰囲気が伝わってくる。

 庭には、記念碑と当時からの樹木が、建物を囲むように立っていて、言葉では言い尽くせないような風情を感じる。現当主の正頒氏は、彌織から数えて四代目ということで、お話によれば、「天皇ご到着の折には、浅水地区の人々が総出でお出迎えをしたと聞いている」とのことであった。

 すでに、百二十年以上の歳月が流れているが、当時そのままに維持管理をされてきた庭に佇むと、まるで昨日のことのように感じられる。

(2001年3月、池田さんには快く取材に応じていただきました。厚く御礼申し上げます。)
 

*写真は個人の住居を許可を得て撮影したものです。無断転載は固くお断りします。当然ですが、住居への立ち入りはできません。

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本稿は福井商工会議所報「Chamber」2001年4月号に掲載したものを一部改訂したものです。無断転載はお断りします。
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