史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


六つ橋 (あさむつはし 福井市浅水 )
北陸道と美濃街道の分岐点。さまざまな人々の往来を見つめ続けた由緒ある橋
 

 水町にある「朝六つ橋」は、一見どこにでもある橋で、車で通り抜けければそれと気が付かない程目立たない橋である。
 しかし、かの清少納言が「枕草子」で、「橋はあさむつの橋」と称え、催馬楽に歌われて以来、まさに誇るべき由来を持つ橋がこの「朝六つ橋」なのである。

 六つ橋は、古来より歌枕として使われるほど有名であったようで、橋のたもとには、そのことを説明した碑文と西行法師の歌、松尾芭蕉の 句が掲げられている。
 西行が実際にこの橋を渡ったかどうかは議論のあるところだが、芭蕉は「おくのほそ道」の中で、「漸白根が嶽(白山)かくれて、比那が嵩(日野山)あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。」と書いているように福井から敦賀へいく際に、実際に通過している。朝六つ橋から日野山が見えたとは、当時はどのような風景だったのであろうか。

 さて、現在の「朝六つ橋」周辺は、古い家並みもあって、よく見るとそれらしい雰囲気を醸し出している。あたりを見まわしてみると、橋の北の北陸道沿いに本陣跡という石柱が立っていて、ここは、北陸道と大野方面へ続く美濃街道の分岐点となっていた交通の要所であったことがわかる。江戸時代、参勤交代で福井や大野の藩主達等も往来した宿場町を形成していた。宿場町といっても、この地の場合は、主に荷物運送の中継ぎや旅人の休息の宿としての色彩が濃かった。当時の橋の長さは13間といわれ約24m、幅は2間で3.6mの大きさであったと記録されている。
 ちなみに、朝六つ橋の名前の由来だが、地名の浅水と、福井から旅立つとちょうど明け六つ(午前6時ころ)に橋を渡ることになることから生まれたとする説や、平安時代の高僧西行法師が、この橋のたもとで文殊山を望んで歌を詠んだのが朝六つ時だったので「朝六つ橋」と呼ばれる様になった、と言う説など諸説がある。

 北朝の時代には、太平記第二十巻に、新田義貞の愛妾「勾当の内侍」が、越の国へ転戦した義貞の安否を尋ねて京より杣山(南条郡)やここ「朝六つ橋」まで来たことが載っている。
 内侍は、中将義貞が足羽という所に向われたことを聞いて、杣山より輿の轅を廻して浅津の橋を渡るが、その場所で「瓜生弾正左衛門尉」が兵百騎を引きつれて京へ行く処と偶然にも行きかう。瓜生が早速馬よりとび降り、「これより何処へ参られますか」と尋ね、「新田左中将殿は、昨日暮れ方、足羽と申す処で討死されました」と涙ながらに申しあげると、内侍は、胸つまり肝をつぶして、ひれ伏して沈み、泪が止まらず急ぎ杣山へ引き返したという。
 この場面が史実かどうかは別にして、太平記の作者にこのような悲恋の舞台を与えさせた朝六つ橋は、きっとそれらしい雰囲気の橋だったに違いない。

 の下の流れは朝六つ川で、これが本来の浅水川であった。あまりにひどい暴れ川であったため、明治41年に始まった河川改修で、大正時代には浅水川は現在のように鯖江に流れを移している。

 橋の上から下を流れる朝六つ川を眺めながら、さまざまな歴史の舞台となった橋の歴史に思いを馳せる次第となった。
 最後に、朝六つ橋の呼称の由来ともいわれる西行の歌と芭焦の俳句を紹介しておきます。

 越に来て 富士とやいはん角原の
    文殊がだけの 雪のあけぼの (西行)

 朝六つや 月見の旅の 明けはなれ (芭蕉)
 

地図はこちら
 

TOPへ戻る一覧に戻る


Copyright (c) 2000.06 H.Okuyama All rights reserved.
本稿は福井商工会議所報「Chamber」2000年6月号に掲載したものを一部改訂したものです。無断転載はお断りします。
本ページへの直接リンクはご遠慮下さい。必ずTOPページか歴史のみえる風景一覧へリンクして下さい。.

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO