史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


井順子碑 (ほそいじゅんこひ 福井市 足羽山愛宕坂 )
織物王国福井の礎を築いた女性パイオニア。
 

 井市の中心部に聳える足羽山。
 福井市民の憩いの場として親しまれていますが、近年、足羽山へのぼる愛宕坂に橘曙覧記念文学館や茶道美術館が整備され、笏谷石による修景事業も終了し、歴史ゾーンとして面目を一新し ています。また、コミュニティバス「すまいる」の停留所がすぐ近くに設置され、一層親しみの持てるすばらしい歴史観光スポットに変貌しています。

 その愛宕坂を上がると、百坂と交わるちょっと下あたりに、古めかしい雰囲気の虚空蔵寺が建っています。その境内に細井順子碑と書かれた大きな石碑があるのに気づかれたでしょうか。 今回はこの細井順子をご紹介します。


 井順子(本名じゅん)は天保13年(1842年)足羽郡六条村下六条(現福井市下六条町)の農家に生まれ、福井市の雑貨商細井萬次郎に嫁ぎました。
彼女は、聡明かつ機織技術に秀でていたようです。

 時はちょうど、明治維新後の動乱期。日本政府は、殖産興業と士族授産のため様々な施策を打ち出しますが、特に明治政府が行なった岩倉欧米視察団で先進各国が民間活力を産業振興に活用している事実を新政府首脳が目の当たりにした後は、民主導による新たな殖産興業政策を取る事となります。

 福井藩出身の由利公正が、明治4年にヨーロッパから数種類の絹製品を持ちかえり、養蚕家となっていた旧福井藩士族の酒井功に預け、藩伝統の絹織物(奉書紬)を改良し、産業として発展させるよう託します。

 のころ、京都府はヨーロッパ最新の織物技術を習得させるため、佐倉常七他2名をフランスのリヨンに伝習生として派遣、彼らはジャカードとバッタン技術を習得して帰国、明治7年には京都勧業博覧会で購入したジャカードとバッタン機を公開するとともに、翌年には、市内に開設された勧工場でこれら織機の使用法を機業家に伝授し始めます。
このことを聞いた酒井功は、敦賀県庁(当時福井県は敦賀県)に京都への伝習生の派遣を請願、同年その伝習生として細井順子他1名の県費派遣が決定したのです。

 ャカードは縫糸の引上げ作業をパンチカードで自動化したもので、横糸をシャトルでわたすバッタン技術とあわせると、従来の織機の4倍の能力をもつといわれ、その操作は大変難しいものでした。
 細井順子は、郷土の期待に見事にこたえ、これら織技術を完壁に体得したのです。ところが、明治9年8月に敦賀県が消滅し、福井県が嶺南は滋賀県へ、嶺北が石川県へ編入されると、敦賀県がおこなっていた県費伝習生は打ちきられ、細井順子も帰福を余儀なくされることになります。
  福井にもどった順子は、酒井功ら旧福井藩士族が明治10年に結成した「織工会社」に技師として参加、ここから、新技術による絹織物業が福井市街において急速に発展、後の福井における羽二重機業そして繊維産業発展の礎となっていくのです。

 空蔵寺の碑文をながめながら、激動の時代に女性でありながら、郷土発展の期待を一身に 担い、そして見事にやりとげた彼女の熱い志に思いを馳せることとなりました。
 

地図はこちら
 

TOPへ戻る一覧に戻る


Copyright (c) 2000.11 H.Okuyama All rights reserved.
本稿は福井商工会議所報「Chamber」2000年11月号に掲載したものを一部改訂したものです。無断転載はお断りします。
本ページへの直接リンクはご遠慮下さい。必ずTOPページか歴史のみえる風景一覧へリンクして下さい。.

 

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO