史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■

 

 三の丸――明道館発祥の地(めいどうかんあと)


 井市は、近世において越前松平家の城下町として北ノ庄城(福井城)がおかれるなど、本来は城下町としての歴史的事柄が豊富であり、全国でも誇りうる有数の歴史が薫る都市である。しかし、戦災及び震災という二度の災害により、歴史的な遺産の多くが失われ、現状では、城下町をしのばせる当時の街の面影はあまり残されていない。

 時の城下町の雰囲気を伝えるべき町名や通り名も、一部は自治会(町内会)等の名称に用いられ、あるいは、日常生活において通用しているとはいえ、戦後の住居表示等の改正により、近代的な名称に変更されている。
「三の丸」はそのようなかにあって、今でも、「公式」に生きている数少ない地名といえる。もちろん正式の町名としては残っていないが、「三の丸交差点」、三の丸地区として、福井市民にその位置が おおむね理解されている場所といえる。
 

  の地に「政教一致による藩政刷新」の役割を担うため藩校「明道館」が設置されたのは、安政二年三月一五日のことであった。設置された大谷半平屋敷地は、現在の「三の丸交差点」の北側にあり、大手二丁目一四付近にあたる。この頃、福井藩は軍政改革をはじめ近代化路線を強力に推進しはじめ ており、その一環として人材養成と財政再建が車の両輪の関係として必須の課題となっていたのである。そのような状況のなか、六月二四日厳かに開館式が強行され、翌日より講義が開始された。
  明道館の整備は、安政四年一月に橋本左内が二五歳で学監心得に任ぜられると、四月には洋書習学所が併設されるなど一層整備、拡充が進められた。また、左内が明道館を去ったあと、熊本から招請した横井小楠がここで講義したことでも有名である。


 
道館はその後、八軒町(宝永二丁目)、木暮町(中央三丁目)へと移転したが、幕末から明治維新の人材教育にあたり、福井中学さらに現在の藤島高校へと続いている。また、現在の三の丸地区では福井では初の試みとなる、商業、医療 施設、集合住宅(居住)一体型の複合再開発ビルの建設がすすんでいる。

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(初出 「福井商工会議所報」2002年3月号)
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