史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■

 

莨屋旅館跡・旧山町(たばこやりょかん あと 現照手一丁目)
    あの坂本龍馬が暗殺直前に由利公正と会談した場所

 
 戸期の北陸道は九十九橋で足羽川を渡り、呉服町、筋違橋を渡り東に折れ、そのまま東進し、松本下町で北に転じ、加賀口へと通じていた。なかでも九十九橋北から、京町、上呉服町と続く一帯は商家が軒を並べ、福井城下でも一番賑やかなところであった。


 
の北陸道沿いの呉服町の賑わいから西に入ったところに山町があった。東は塩町、南は八幡町、北は上三橋町に接する場所で、現在の十四街区にあたるところである。
 名前の由来ははっきりしないが、一乗町などと同様、朝倉氏時代の一乗谷から移住によって形成された町で、特に一乗谷の山の手居住者が移住したところと伝承されているが、推定の域を出ない。

莨屋(たばこや)旅館古写真
 
こに莨屋(たばこや)旅館があった。後の料理旅館的な経営であったらしく、旅籠に加えて諸会合などにも利用され、幕末から明治に入っても利用されていた。

  
 の旅館が有名になったのは、かの坂本龍馬が暗殺される直前の慶応3年に福井を訪れ、この旅館で福井藩の三岡八郎(後の由利公正)と徳川幕府崩壊後の新政府の構想について会談したためである。この会談は朝から始まりや夜半まで続いたといわれている。

 坂本龍馬は文久年間にも福井を訪れ春嶽公や横井小楠と会っているが、慶応三年といえば十月十四日に将軍慶喜が大政奉還を上奏し、一方で薩長には倒幕の密勅が出されるなど、世情が騒然としていたときであり、同月二四日に土佐藩士岡本健三郎を同行して京都を出立し福井に入り、莨屋に宿泊、十一月二日の朝から三岡と会談した。翌三日には福井を離れ京都に戻り、一旦は常宿(アジト)にしていた三条にある材木商「酢屋」に入ったものの、身の危険を感じて近くの河原町通り「近江屋」に移ったが、直後の一五日何者か手のものによって襲撃され、同志中岡慎太郎ともども暗殺された。
 

 屋は明治に入っても経営を続けており、明治 十三年福井商法会議所 (後の商業会議所)が創設される際にも、準備の打ち合わせなどに利用されたが、明治三五年三月の福井市橋北大火の際に惜しくも焼失した。その後福井市関連の建物が建築されたが、大正二年六月末、福井商工会議所が交換取得し 、移転した。 福井商工会議所との縁も浅くはないのである。

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(初出 「福井商工会議所報」2002年4月号)
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