史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


屋跡( わらやあと、現 照手二丁目)
   
橘曙覧(たちばなのあけみ)と堀名銀山


 曙覧は文化九年(一八一二)年、福井城下つくも橋たもと石場町の紙商正玄五郎右衛門商家に生まれた。通称を五三郎、名は尚事、後に曙覧と改名した。生家は紙や筆、墨などを扱 い城下では有力商店であったが、二歳で母鶴子と死別したため、母の実家である府中(現武生市)の酢醸造商山本平三郎に養育された。
 さらに、十五歳で父を亡くしたことを契機に南条西大道の日蓮宗妙泰寺の僧、明導に仏教を学んだ。その後、家業を継いではいるが、天保の飢饉や火災のため家産が傾いたため家督を弟に譲り、足羽山北東部の登り口の黄金舎に隠棲した。

 家跡は、道路拡張で現在は道路および歩道となっており、九十九橋南の交差点に石碑が建っている。 また足羽山の黄金舎跡は、平成十二年四月に開館した橘曙覧記念館となっている。その後、娘三人を生後間もなく亡くしたことなどが重なり、三三歳での国学者田中大秀への入門につながり、和歌の道に入った。
 三七歳で当時は田畑や雑木林ばかりであった三ツ橋(現照手二丁目)の藁屋に移り、五七歳で没するまで二十年間をそこで過ごした。ここで「独楽吟」や「堀名銀山」等の個性豊かな歌を詠む。
 独楽吟の「たのしみは 朝おきいでて きのうまで なかりし花の 咲けるみるとき」は、米国クリントン大統領が天皇皇后両陛下の訪米歓迎スピーチで引用したことでも有名である。

 政五年、大獄で福井藩の江戸霊岸島邸に蟄君する松平春嶽の命を受け「万葉集」から三六首を撰歌し、自らの歌と共に送っている
 また元治二年五四歳の時、藩主松平春嶽が藁屋を訪れ出仕を勧められたが辞退し、この時藁屋を「志濃夫廼舎(しのぶや)」 と改めた。

 の作風は江戸時代歌壇の中では異色な万葉調の生活歌で、特に堀名銀山(現勝山市)での歌は 、「彼が鉱山の様子を思うままに詠んだことが、自然と万葉集に近づいたのである。曙覧の歌想は万葉集の歌よりも進んだところがある」と、明治になって正岡子規が「万葉・実朝以来の歌人」として絶賛した。
 当時、堀名銀山には、生涯の友といわれる冨田礼彦が役人として勤めており、万延元年三月ここを訪ね、銀山の作業光景を見て周り、一連の歌を詠んだもので、ここでの体験が曙覧の作風を大きく開花させた と考えられる。
 

▼独創的歌が詠まれた藁屋跡 ▼堀名銀山精錬所跡(勝山市)

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(初出 「福井商工会議所報」2002年8月号)
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