史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


源寺( ずいげんじ、福井市足羽5丁目10-17)
 
松平家ゆかりで唯一の福井城遺構が現存


 足羽山の北麓で旧小山谷にある臨済宗妙心寺派の「瑞源寺」は、高照山と号し、福井藩主松平家の菩提寺の一つである。最近は、萩の寺として有名で、門前からゆるやかな曲線をえがいて続く参道の両側に萩が植えられ、その季節には多くのファンが訪れる。

 この寺は、もともと福井藩の支藩吉江(現鯖江市)にあり、吉江藩主松平昌親の母の位牌が納められていたが、昌親が福井藩を継いで五代藩主になったのに伴い、吉江藩は廃藩となり、延宝三年(一六七五)寺も現在地に移り瑞源寺を号したとされる。なお高照山とは母の高照院から採られたものである。
 昌親は一旦隠居したものの、福井藩が半知という廃藩の危機のなか七代藩主吉品として再勤し、藩政の立て直しにあたった。
 このため、正徳二年(一七一三)松平吉品の没後、五〇石の増知を受け、村内に計一〇〇石の寺領を有して、探源院(吉品)とその母高照院の菩提所として松平家の庇護を受けた。現在も山の斜面を登ったところに探源院(吉品)とその母の墓が祀られて残っている。

 福井城の建物は、廃藩置県後取り壊されたり、売り払われたりしたが、加えて戦災と震災で壊滅的な打撃を受けた福井市は、歴史的建造物の大半を喪失した。しかし平成三年六月、この寺の言い伝えどおり、本堂と書院が福井城本丸の御殿の遺構であることが調査の結果判明した。本堂は幕末の万延元年(一八六〇)に再建されたが、福井城本丸御殿の一部を移築したもので、天保二年(一八三一)に一四代藩主斉承がつくった御小座敷と呼ばれる御殿であった。瑞源寺の記録に「御本丸の御小座敷を以って本堂を再建する」とあり、事実であることが確認され、増改築されているが、中央列の三室や前方の入側(墨廊下)などの構成は福井城本丸御殿の図(松平文庫)にみられる御小座敷(おこざしき)とほとんど同じである

 また、本堂に付随する書院も同様であり、大奥御座之間が移築されたものである。
 母屋や障子の枠、違棚の小襖裏紙などに「御座之間」や「大奥御座之間」の墨書が残っている。この御殿も天保二年につくられたもので、大奥とあるので斉承の正妻浅姫(十一代将軍家斉の娘)のための御殿であったと思われる。

 この他瑞源寺は幕末、明治の著名人とも関係が深く、代表的なものとしては本県初のマニュファクチュア経営など絹織物開拓の第一人者、三宅丞四郎の機業碑や、「撮要新聞」発行など本県新聞の草分けとも言うべき富田厚積の墓もある。

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(初出 「福井商工会議所報」2003年4月号)
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