史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


新館跡・福井中学跡( めいしんかん・ふくいちゅうがくあと、福井市大手三丁目)
 
福井藩藩校明新館とその流れを汲む福井中学の跡

 JR福井駅前から大名町交差点に通じる中央大通りは、放送会館前通りともいわれるとおり「福井放送会館」が建っている。この付近は明治初期の明新館、またその後の福井県立福井中学が建てられていた場所である。

 応三年十月、第十五代徳川幕府将軍慶喜は大政奉還をし、政局の主導権把握に努めるが、薩長の倒幕派は十二月九日「王政復古」を強行し、明治新政府の誕生となる。

 政府は様々な改革に乗り出すが、地方でも軍制や行政機構の改革は避けられず、福井藩においても同様で、改革は藩校明道館にも及んだ。
 明道館は安政二年に開校した福井藩の藩校で、幕末の名君と謳われる第十六代藩主松平慶永(春嶽)によって、「政教一致による藩政刷新」の役割を担う人材の養成を図るために開設された。
 安政四年一月に橋本左内が二五歳で明道館学監心得に任ぜられると、四月には洋書習学所が併設されるなど一層整備、拡充が進められた。また、左内が明道館を去ったあとは、横井小楠がここで講義したことでも有名である。明道館は当初三の丸に設置されたが、その後、八軒町(宝永二丁目)、木暮町(中央三丁目)へと移転した。

 して、維新直後の明治二年、近代国家建設のための人材育成に向けて、一般庶民にも入学を許可するとともに、下馬門内北川亘之助屋敷地に移転拡張し、さらに名前を「明新館」と改称したのである。

 かし、明新館という名称でこの地に在ったのは僅かで、その年の十二月には本丸内に移転する。後に福井藩留学生として渡米して、帰国後東京大学などで 教鞭をとった後、東京職工学校(現東京工業大学)や伊勢崎、足利、桐生、八王子の染織学校を創設し、明治染織工業の元勲ともいうべき事績を残した福井藩士・山岡次郎が、洋学教授方として指導にあたっていたのがちょうどこの頃である。
 本丸内移転後は「福井藩学校規条」が制定されるなど、一層整備が進められた。かのグリフィスが福井藩の要請を受けて明新館理科学教師として来福、藩の子弟に化学、物理、外国語を教え、日本最初の米国式理科実験室を設置するのは、本丸時代のことである。

 新館はその後も幾多の変遷を経験するが、明治十四年福井県が設置されると、教育も新時代を迎え、本県教育の中核・福井県立福井中学校として、初期の一時期を除いて元の明新館の場所(現放送会館周辺)に建設され、昭和十一年牧ノ島(藤島高校の現在地)に移転するまで間、人材育成にあたったのである。

▼大正期の福井中学

 

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▼大正期地図

 

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(初出 「福井商工会議所報」2003年9月号)
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