史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


町と長慶寺(堀秀政墓)(ほりまち、福井市西木田三丁目)
 
秀吉臣堀秀政の居館跡地と墓


  正十一年(一五八三)四月二十日未明から始まった賎 ヶ嶽の戦いで柴田軍は総崩れの状態となり、柴田勝家は越前へ逃れ、北ノ庄城にたて篭るが、愛宕山(足羽山)に居陣した秀吉は、四月二十三日より攻撃を開始し、翌二十四日夕刻、勝家は妻のお市とともに自刃した。
 この結果若狭を領していた丹羽長秀に越前が与えられたが、長秀は天正十三年四月に死去し、その跡は子の長重が継ぐも、同年閏八月、家中の不和が原因で越前の所領を没収され若狭へ転封となる。

 重の跡の越前北ノ庄には、近江佐和山にいた堀秀政が入部した。
堀秀政は、最初は美濃斎藤氏に仕え、後に織田信長の配下となり、その側近としてとして活躍した武将である。本能寺の変で信長が横死してからは、秀吉と行動を共にし、明智光秀を討伐。続く「清洲会議」でも秀吉支持にまわった。
 賎ヶ嶽の合戦でも旗幟を鮮明にして秀吉方で活躍し、越前を任されることになったのである。

 の堀秀政の居館があったとされるのが足羽山東山麓の堀町である。当時の北陸道は木田神社・橘屋敷前を通り、堀町で突き当たり北に折れていたが、この角がちょうど堀町にあたる。この時は、炎上落城した勝家の北ノ庄城が再建されておらず、北陸道の要所で、背後の足羽山を防御に使えるこの地に館を構えたと考えられる。
 もっとも秀政が北ノ庄に居住していた期間は延べ日数にすればそう長くはない。未だ秀吉による国内統一の最中で、九州制圧などに秀吉麾下の武将として行動をともにしていた。

 正十八年には秀吉の小田原攻めに参陣したが、その最中に病となり五月二七日三八歳と短い生涯を終えた。遺骸は小田原の海蔵寺に埋葬され、墓が現存しているが、髷は領地福井に戻り、木田の長慶寺にも墓が建立された。長慶寺は橘屋敷に隣接し、一向一揆時代には名を馳せた浄土真宗の寺院であるが、秀政とも御坊の建立で縁があり、菩提寺とされたのであろう。現在も秀政の画像を伝えている。

 政の死後は嫡子秀治が継いだが、後に越後春日山城三十万石へ転封となった。このとき秀政の墓は春日山林泉寺に改葬されたといわれ、このため今も小田原、福井、春日山と三箇所に墓が残っている。

  堀町の南は堀小路、また近くには堀の宮(白山社)もあり、この一帯にはいまも堀氏に因む名前が残っている。
 

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(初出 「福井商工会議所報」2003年11月号)
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