史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


西光寺跡( さいこうじあと、福井市次郎丸町)
 
真盛上人ゆかりの大寺跡


 井市次郎丸の南方、山のふもとに真盛上人ゆかりの西光寺跡(岡の西光寺といわれている)がある。真盛は、室町時代伊勢に生まれ比叡山で二〇余年修行し伝灯法師の位に進んだ天台宗の高僧で、念仏に専念、のち坂本に西教寺を復興して説戒念仏の道場とし、以後各地を教化した。真盛派の祖である。

 享二(一四八八)年八月一乗谷当主朝倉貞景に招かれ、滞在中の南条郡府中より一乗谷に入り、安養寺で説法を行った。朝倉氏自身は曹洞宗であったが、この時貞景も真盛に帰依したとされ、この結果、真盛は朝倉氏の家臣や一乗谷の住人に大きな影響を与えた。一乗谷の周辺には今も石塔・石仏が多数残されているが、それらは上城戸や下城戸の外にあった、西山光照寺、盛源寺、最勝寺、法蔵寺、極楽寺など天台真盛派の寺院のあったところに集中している。一乗谷の住人たちの間に強い支持を得ていたことがわかる 。

 の越前の布教の中心となったのがこの西光寺である。
延徳元年(一四八九)六月、朝倉氏家臣の上田氏が、朝倉氏と越前支配をかけて戦った合戦の戦死者のために吉田郡岡に西光寺を建て、真盛を招いて落慶法要、追善供養を行った。その後は府中の引接寺と共に真盛派の中心となり、大いに栄えたとされる。

 た延徳四年、西光寺で病に臥せっていた真盛上人にある人が訪ねてきて、何用か尋ねたところ、二十年ほど前にこの近くの大畔縄手で誅殺された亡魂で、上人に念仏回向してもらって修羅道からの苦しみから免がれたいと申し出たので、十念を授けたところ、たちまち消え失せたとある。
 上人は不審に思い後で人に尋ねたところ、以前この辺りで朝倉氏と前越前守護代甲斐氏との激しい合戦がおこなわれ、甲斐方の者が多く討たれたことを知り、近くの大畔縄手に卒塔婆を立てて、西光寺で百万遍の回向をしたことが「真盛上人往生伝記」 にでている。
 このときの卒塔婆は今も残っている。

 西光寺は、天正三年柴田勝家が北ノ庄(福井)に築城した際、柴田家の菩提寺として北ノ庄に移転させられるが、その際、真盛上人が池に姿を写して刻まれたという、自作の木像のみが居坐って動かず、そのまま現在も「開山堂」に安置されている。
 現在でも、その寺跡には石仏などが多く残っている。

 

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(初出 「福井商工会議所報」2004年2月号)
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