史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


倉天心ゆかりの地( おかくらてんしんゆかりのち、福井市/横浜市)
 郷家跡(福井)、 生誕の地(横浜)


 治期の美術指導者岡倉天心は、幼名を角蔵といい、越前福井藩士岡倉覚右衛門の次男として文久二年横浜に生まれた。
 そのころ福井藩は、殖産興業(民富)に力を入れており、安政六年十月には領内物産の集荷機関として九十九橋北詰に物産総会所を設置、元締には幕末期にすでに照手でマニュファクチュア的機業場を経営していた三宅丞四郎があたり、集荷した物産を海外に輸出するために、長崎と横浜に商館を設置したのである。

 の横浜商館「石川屋(石川生糸店)」の支配人を務めたのが、天心の父覚右衛門である。
 当時の石川屋の繁盛振りは錦絵として残されているが、石川屋は本町五丁目(現本町一丁目)、幕府運上所(現神奈川県庁)の目と鼻の先で現在の横浜開港記念会館の建立されている場所に在った。

 川屋閉鎖後は、その場所に町会所がおかれ、横浜商工会議所発祥の地ともなっており、会館横には、現在「岡倉天心生誕の地」「町会所跡」「横浜商工会議所発祥地」と三つの碑が並んで建立されている。

▼横浜開港記念会館 ▼横浜町会所跡碑
▼横浜商工会議所発祥の碑 ▼天心生誕地の碑

 心は幼い時から英語を学び、また漢籍にも親しんだ。維新後の明治六年、父とともに東京に移住し、東京外国語学校、東京開成学校(東京大学)で政治学、理財学などを学ぶが、そこでアメリカ人教師フェノロサの通訳として日本美術研究を手伝ったことが生涯を方向づけた。後、文部省に出仕して図画教育調査会委員として古社寺宝物調査にたずさわって 、美術行政面に頭角をあらわしはじめた。
 その後、フェノロサらと欧米を視察し、明治二二年東京美術学校が開設されると天心は校長になった。そこで横山大観、下村観山、菱田春草らに大きな影響を与えた.。

 治三一年校長辞職後、日本美術院を興し、その後も日本美術界に革新的な役割を果たす一方、ボストン美術館東洋部長も務め、中国やインドへ旅行し日本のみならず東洋文化のために貢献し、大正二年新潟県赤倉で没した。

 倉家の実家は福井城下志比口にあり、現在「岡倉天心郷家の跡」の碑が建立されている。彼は横浜生まれではあったが、常に自分の郷土は福井であると称し、福井にもたびたび来遊したとされる。
 

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(初出 「福井商工会議所報」2004年3月号)
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