史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


昌寺(えいしょうじ、福井市東郷二ヶ町
 
朝倉宗滴・桂室永昌ゆかりの寺院


 井市街から東に八キロほど行った足羽川の南の地が、朝倉氏とも関係の深く戦国から近世初期まで城下町であった東郷集落である。

 倉氏は南北朝期、越前守護斯波高経に従って一族をあげて但馬から越前に入部し、戦功により越前の領地七ヶ所(宇坂・棗・東郷・坂南本郷・河南下郷・木部島・中野郷)の地頭職を得、以降これらの地に順次入り込んだ。東郷もその一つで、朝倉美作守正景は、東郷の代官職を得てここに居住し、東郷城を築き、後に東郷氏を称したとされる。現在城山と呼ばれ、一二二mの丘陵に残る槙山城跡がそれである。 

 して、応仁の乱が勃発すると、朝倉孝景(英林)は、越前守護代を実力者の名門甲斐氏(斯波氏執事)から奪い、戦国大名として転身を遂げる基礎を確立した。

 この英林孝景の末子にあたるのが後の軍奉行朝倉教景(宗滴)であり、母は若狭武田氏被官温科氏女(逸見氏養女)桂室永昌で、二人にゆかりの寺が東郷二ヶ町の永昌寺である。

▼永昌寺 ▼東郷集落

 昌寺は、東松山と称し曹洞宗の禅寺で、開山は静岡徳願寺の三世越渓麟易である。
 地元では朝倉孝景の創建との伝承もあるが、実際には桂室永昌が実子以千宗勝を異母兄に殺害された後、これを弔うために創建したと考えられる。宗勝は朝倉家を継ぐことが予定されていたとの説もあり、この謀殺には謎も多いが、女丈夫で知られる桂室永昌の怒りは相当なものであった。彼女 が、もう一人の実子教景(宗滴)とともに一乗谷を離れたのは、そういった危険から逃れることを意図したのかも知れない。

 室永昌の死後は、教景(宗滴)によってその菩提寺とされた。現在も寺には、永昌とその子宗勝、宗滴の位牌が残る。かつては墓石もあったと考えられるが、その後の戦火で不明となった。なお永昌寺の北側には宗滴の屋敷もあったとされる。

 倉氏滅亡後は東郷槙山城主となった長谷川秀一の菩提寺となった。
 

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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2004年4月号)
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