史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


倉街道( あさくらかいどう、福井市鹿俣、東大味)
 
今も残る石畳の道


 国期の越前を支配した朝倉氏は、南北朝の動乱時期に越前守護職であった斯波高経の被官人として越前に入国、戦乱で活躍しその後定着、着実に実力をつけ守護代甲斐氏につぐ地位を確保するに至った。
 の朝倉氏が一乗谷を拠点としたのは、戦国期の朝倉孝景の時で、応仁の乱で大活躍し、その後甲斐氏に代わって越前守護代に就任したとされるが、実際には乱よりも百年以上前の貞治年間に、一乗谷を含む足羽郡宇坂荘の地頭職を得てこの地域に進出し、十五世紀初頭にはすでに一乗谷は朝倉氏の拠点になっていたと考えられ、はじめからここで成長したと見るのが正しいかもしれない。

 のことはまた朝倉街道成立の重要な要因でもあった。守護斯波氏や守護代甲斐氏の拠点で守護所が置かれ、北陸道が通る府中(現武生市)を避け、一乗谷に物資などの移動を可能とするルートの構築は、朝倉氏に欠かせないものだった。

 のため朝倉街道は、斯波氏、甲斐氏の眼を逃れるようにしてつくられていったと考えられる。そしてこれが、応仁の乱の後、名門の守護代甲斐氏と朝倉氏が越前で覇権を争った時に、兵や物資の移動面で絶大なる効果を発揮することになるのである。
 

▼現在の車道 ▼谷間に残る旧街道


 倉街道の道筋については、いくつかの説があり一定していないが、鯖波(南条)から牧谷坂を越えて粟田部に出、鞍谷川沿いに三里山の麓をとおり、榎木峠を越え北進したが、一乗谷へは榎木峠を越えてから東に折れ、大味を経て鹿俣峠を通り一乗谷へ到った。この榎木峠〜大味〜鹿俣峠〜一乗谷への道を「大手道」と呼び、この通り沿いには家臣団の屋敷も置かれ、大味から鹿俣に至る山中には、現在の道路の脇に寄り添うようにかつての朝倉街道が当時の姿をとどめて残っている。

▼今も残る石畳跡 ▼現在の道と交差する地点

 中、現在の道路と交差する地点があり、ここには朝倉街道の案内板だけでなく、石畳の道も残っており、脇の魯台とみられる石積ともども往時の雰囲気を味わえる場所となっている。

地図はここです
 

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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2004年5月号)
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