史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


田定一生家跡( すぎたていいちせいかあと 福井市波寄町
 
豪農出身の自由民権運動の指導者の出身地

 県が生んだ豪農出身の自由民権運動の指導者として著名な杉田定一は、嘉永四(一八五一)年六月二日、杉田仙十郎の長男として坂井郡鶉村波寄(現福井市)に生まれた。幼名を鶴吉郎といった。
 杉田家は越前でも屈指の豪農で、この地域の大庄屋を務めており、父仙十郎は私学校の設置で藩から処分をうけるほど教育には熱心であった。子息定一を早くから三国滝谷寺の道雅上人や府中(武生)の松井耕雪、福井藩の吉田東篁のもとで学ばせていた。

 の後定一は、大阪、横浜、東京で理化学や英語、ドイツ語を学んだが、政治活動をはじめるのは明治八年で、早くも政府批判の声をあげる。十年には板垣退助らと愛国社再建運動に従事し、十一年帰福後は父仙十郎とともに地租軽減運動 に取り組み、投獄を繰り返しながら越前の民権運動を指導、県会議員も一期務めている。

 治二十二年大日本帝国憲法が発布され、翌年初の衆議員選挙が実施されると、坂井・吉田郡選挙区から立候補し、九割近い支持を集め当選、不出馬の一回を除き連続十回の当選を果たす。国政では衆議員の副議長、議長をはじめ政友会の総務委員長や幹事長も経験したが、念願であった入閣を果たすことはできなかった。

▼生家跡 ▼杉田定一墓所

 の間、杉田は水害で悩むふるさと福井のために、特に本県に大被害をもたらした明治三十二年水害の被害を踏まえ、九頭竜、日野、足羽 の三大河川改修に国費を投入し、抜本的改修を推進した。
 また晩年には、芦原温泉の振興のために、金津から三国までの鉄道敷設に尽力し地元民から恩人として慕われた。

 治四十四年にはこれまでの国政功労で貴族院議員に選出され、昭和四年三月二十三日七十九才で生涯を終えたが、晩年はこれまでの政治活動にすべての資産を使い果たし寂しいものがあったという。

 家跡は、福井市から県道福井・棗線で佐野町まで行き、そこから丸岡川西線に入り砂子坂から波寄方面に北上すると 、左手に定一の顕彰碑が建立されており、その裏側が生家跡である。
 全資産を失ったため、今では何の建物も残っておらず、わずかに門の痕跡と「杉田定一生家跡」の案内板が設置されているのみであるが、裏山の杉田家の墓地には、父仙十郎をはじめ家族の墓が残っている。とりわけ定一の墓碑は立派なもので、まわりの石垣には彼を慕う芦原温泉の旅館経営者の名が彫られている。
 

地図はここです


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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2004年10月号)
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