史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


澄寺 ( たいちょうじ 福井市 三十八社町
 「越の大徳」泰澄の生誕地
 

 福井市南の三十八社地区に、中近世の北陸道に沿って「越の大徳」として、今でも多くの信仰を集めている泰澄生誕地との伝説が残る泰澄寺(号白鳳山、真言宗智山派)が在る。
 泰澄は奈良時代初期の僧とされ、36歳のとき、加賀・越前・美濃の三ヶ国に跨る白山(2702m)を開いたと伝えられ、白山信仰と結びついて越前をはじめ近隣には泰澄開創と伝えられる社寺が多く建立されている。

 今回は「歴史の見える風景」では原則とりあげない福井市内に残る古代の伝承、泰澄について触れてみたい。
 
 泰澄の事跡は「泰澄和尚伝」等にみえるが、どこまでが真実で、どこからが伝説なのかは判然としない。
 いま、伝承を基に簡単に生い立ちを記せば、白鳳22年(682)の生れで、父は三神安角、母は伊野氏でその二男として誕生した。幼少の頃より、他の児と遊ぶより泥土で仏像や堂をつくり、花を供えていたといわれる。持統6年(692)、唐から戻り北陸道遊行中の道昭聖人が三神氏宅に宿をとり、泰澄を見てその才を見抜いたとされる。

 14歳の時、十一面観音の霊夢を見、越前の山々を望む越知山(612m、旧丹生郡朝日町)坂本厳屋に入り修行。大宝2年(702)、文武天皇より鎮護国家の法師に任ぜられた。霊亀2年(716)、白山神の霊夢を得、その導きにより白山登拝に成功、弟子とともに千日の練行を積んだ。白山は、これ以降行者たちの修行の場となった。
 養老6年(722)元正天皇の病気加持により神融禅師の号を許され、天平9年(737)には大流行した疱瘡を十一面観音法によって終息せしめ、大和尚位を受けた。
 
 麻生津地区の旧北陸道沿いの石段を登ると、正面に大師堂、左に本堂があり、大師堂の奥には白山権現社が在る。また泰澄ゆかりの遺跡として、北東に坐禅石、北方に産湯池、隣接して泰澄の坐禅修行中の落雷を封じた池とされる雷之池がある。
 「越前国名蹟考」には「堂の後北の方へ一丁許に池二つあり。東にあるを御膳水(雷之池か?)とす。水清し。西は産湯水なり。清からず。少し南方へ上りて座禅石あり。盤陀石と云」と記されている。

 大師堂の手前には鐘楼が在るが、地元の伝承では、信長の越前侵攻で泰澄寺が兵火にかかった際、鐘は浅水川に投げ込まれたが、後に村人が引き上げ再建したとされる。

 その後泰澄は77歳で越知山に戻り修行に専念し、神護景雲元年(767)86歳で死去したとされる。

地図はここです


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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2005年3月号)
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