史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


本左内生家跡 ( はしもとさないせいかあと 福井市 春山二丁目
 幕末福井藩開明派志士の生誕地

 幕末の福井藩を代表する開明派志士の橋本左内は、福井藩の奥外科医だった橋本長綱の長男として天保5年(1834)3月11日、福井城下の常盤町(現春山2丁目)で生まれた。名は綱紀、12歳のとき景岳と号した。左内は通称である。15歳のとき著した「啓発録」はあまりにも有名である。
 左内が生まれた常盤町は、当時の北陸道の中呉服町通を東に折れたところ一帯、東西に延びる町で、常盤町通りの北側が下級武士の屋敷地となっていた。もともとこの地には、東御堂が建立されていたが、万治2年(1659)の大火で焼失、後に移転した際、跡地が再開発されてできた町である。因みにその名は、東本願寺(本山)のある京・常盤町に由来する。
 
 左内は幼年より学を好み、藩儒の吉田東篁に師事、嘉永2年(1849)には大坂の緒方洪庵に入門し、蘭学・蘭方医学を学び、梅田雲浜、横井小楠らとも交わった。帰国後は藩医として一旦は父の跡を継いだが、安政元年(1854)江戸遊学の許可を得た。江戸では藤田東湖・西郷隆盛らとも交流し、政治への関心を深めた。
 安政4年(1857)には、24歳で藩校明道館の学監同様心得に任じられ、教育改革に取り組み、同年8月、江戸に上がり、藩主慶永(春嶽)の侍読・内用掛となり、藩主に近侍し、藩主側近の中根雪江ともども将軍継嗣問題で一橋慶喜派として、また日米修好通商条約の勅許問題でも活躍した。

▼(江戸)越前藩邸跡

▼(江戸)回向院左内墓

 左内は英明な将軍慶喜を頂点に、有能な大名・藩士のみならず庶民までも登用する統一国家体制や、外国貿易による富国強兵など斬新な構想のもとで活動したが、井伊直弼が大老に就任すると、安政の大獄といわれる反対派勢力への弾圧が吹き荒れ、藩主慶永(春嶽)も隠居・謹慎、左内の志は挫折した。
 安政5年(1858)10月、左内は謹慎を命じられ、幽閉生活を送った後、安政6年(1859)10月7日、26歳の若さで斬首となった。

▼左内生家跡

▼左内公園の左内墓

 その左内生誕地の跡には民家が建立されているが、産湯井戸跡とともに、石碑が残されている。
 

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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2005年4月号)
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