史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


羽長秀墓所 ( にわながひでぼしょ 福井市 つくも二丁目17
 秀吉時代の北ノ庄城主

 丹羽長秀は尾張の出で、織田信長の部将。信長が本能寺の変で横死した後は秀吉を援け、秀吉政権下で北ノ庄城主となった。幼名は万千代で五郎左衛門尉を称した。
 出自ははっきりしないが、天文4年(1535)愛知郡児玉で生誕、父長政までは尾張守護斯波氏の被官で、守護家の衰退に伴い長秀は信長に使えたとされる。

 永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦いにも従軍したとされ、史料にはそれ以降登場する。「信長公記」には、信長の天下統一時代に重臣としての活躍が記録されている。
 元亀元年(1570)姉川の戦い以降、朝倉・浅井との戦いが激化する中、元亀2年(1571)には浅井氏の近江佐和山城を落とし、佐和山城五万石を任される。
 その後も越前朝倉氏の滅亡で若狭も信長の支配下に入り、近江佐和山を本拠とする長秀に若狭が与えられた。

 天正10年(1582)、本能寺の変の際には、明智光秀に加担した旧若狭守護武田元明に佐和山城を落とされたが、秀吉と合流し、共に光秀を破り、武田元明をその後自刃に追い込んでいる。
 本能寺の変後の清洲会議には四宿老の一人として参画し、信長死後の後継体制で秀吉を支持、秀吉と柴田勝家が争った賤ヶ岳の合戦でも秀吉に与力し、戦後は越前・若狭に加賀2郡を与えられ、北ノ庄に入部した。

 しかし、長秀の治世は長くは続かず、天正13年(1585)4月16日北ノ庄で死去した。(「総光寺殿大隣宗徳大居士」)。 墓のある総光寺は、長秀が天正11年(1583)北ノ庄に入部後に菩提所として創建したものである。長秀の子の長重が小松に移封になった際には総光寺も移転し、遺骸も改葬され、寺跡に小庵が建立された。後に小庵は総光寺の末寺として宗徳寺を称し、墓(宝篋印塔形式)が守られた。

▼総光寺

▼墓碑

 江戸期には、現在のつくも町一帯には曹洞宗と法華宗の寺院が立ち並び、石場寺町と呼称され、宗徳寺が廃寺となった後は、福井藩重臣芦田氏によって、寺町の南側に総光寺が再建され、現在に至っている。
 

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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2005年5月号)
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