史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


羽山 天魔ヶ池 ( あすわやま・てんまがいけ 福井市足羽山
 秀吉の北ノ庄城攻撃本陣跡


 信長亡き後、秀吉との雌雄を決するため、天正11年3月雪解けを待って北 ノ庄を進発した柴田軍総勢二万八千人は湖北に軍を敷き、勝家は柳ケ瀬に本陣を構えた。これに対して、秀吉軍は弟秀長を中心に総勢二万五千人で余呉湖周辺にて守備にあたっていたが、勝家の出兵を知った秀吉も近江に戻り、ここで両者の睨み合いとなった。

 そのような中、岐阜城の織田信孝が「反秀吉」で挙兵したため、秀吉は4月16日に自ら美濃に向かった。
 この間隙を突いて勝家甥の佐久間盛政は、秀吉軍に奇襲攻撃を敢行し勝利する。この時、作戦完了後すぐに引き上げれば問題はなかったが、勝利に酔った盛政は敵陣に踏みとどまり続けた。結果、大垣から信じられない機動力を発揮して引き返してきた秀吉の猛追撃を受け、柴田軍は大打撃を受け、やがて総崩れの状態となり、僅かな供回りだけで勝家は北 ノ庄へと落ちのび、篭城した。

 北ノ庄城に立て篭もる勝家を攻撃するために、秀吉が本陣を敷いた場所が、愛宕山(足羽山)の山頂天魔ヶ池付近とされている。

 この地には、現在、福井市自然史博物館が建立されているが、その屋上展望台からは足羽川右岸の北ノ庄城本丸(現柴田神社付近)付近のみならず、市内中心部の全域を見下ろすことができ、北 ノ庄城攻撃の本陣に相応しい場所といえる。
 

▼天魔ヶ池からみた旧北ノ庄本丸 ▼福井市自然史博物館

 隣接する段丘上には、福井市民によく知られている継体天皇の石像が建立されており、市民にも足羽山公園として親しまれているが、足羽山とよばれるようになったのは実は明治以降のことで、江戸期には愛宕山とよばれていた。

 天魔ケ池と秀吉については、江戸期に書かれた「越藩拾遺録」に「愛宕山の絶頂に在り。古昔は湖水満々たるが、今も其形残りて水尽る事なし。秀吉公柴田を攻られしとき、此辺に将几を居へられ城中火の手上るを見て悦喜あり」と記されている。

 秀吉の攻撃は4月23日より開始され、その日のうちに本丸を残すのみとなり、翌24日夕刻、勝家は妻のお市を刺し、自ら天守閣に上がり「腹の切り様を後学のために見ておけ」と告げた後、自刃したとされる。

 北ノ庄城本丸を偲ぶ遺構は充分ではないが、秀吉が陣を置いた池は、今も自然史博物館の前に残っている。
 

地図はここです


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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2005年8月号)
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