史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


正寺( うんしょうじ 福井市 足羽一丁目
 福井藩初代結城秀康菩提所


 足羽山北麓にある運正寺は、江戸期福井藩の初代結城秀康の菩提所として慶長12年(1607)に建立された。
 結城秀康(幼名於義丸)は、天正2年(1574)徳川家康の次男として生まれたが、信長没後秀吉と家康が覇権を争った小牧長久手の戦いの後、両者の和睦のため秀吉の養子に出された。なお「秀康」の名は秀吉と家康から一字を採ったものである。
 その後、秀吉の北条・小田原攻めの後、秀吉の命で下総国結城城主・結城晴朝の元へ養子に出され、結城10万石を領有した。
 秀吉の死後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍家康に属し下野国小山に陣を敷き、西軍方の会津上杉景勝の南下を牽制。この功により北ノ庄(福井)68万石の初代藩主に封じられた。しかし、豊臣氏、結城氏へと養子にだされていたため、将軍職には5歳年下の弟秀忠が就き、慶長12年(1607)閏4月34歳の若さで北ノ庄にて一生を閉じた。
 遺骸は結城氏関係で曹洞宗・孝顕寺に埋葬されたが、家康の「徳川は浄土宗である」との命により、新たに京知恩院の満誉上人を招いて開山した浄光院(運正寺)に改葬された。

▼境内 ▼僅かに残る参道石積跡

 戦前まで本堂は、現在の運正寺墓地の区域に置かれており、後背地には総檜造りで笏谷石をふんだん使った霊域が在り、荘厳な雰囲気であったとされるが、戦災、震災、さらにはその後の都市計画で消失、惜しみても余りあるものがある。

 往時を偲べるものは殆ど無いが、当時は現在墓地がある足羽山山麓沿いに廟所にむかう参道があり、この部分の石積だけが僅かに現存している。また、寺門横の寺号碑も戦後寺院の復興時に墓石のなかの1基を利用し造られた。
 本堂前に置かれている石灯篭は、明治24年参道登り口に造られたもので、寄付者を記した石塔とともに、震災後倒壊したが、移転し再建された。

 このほか松岡鋳物屈指の巨鐘といわれる運正寺梵鐘は、鐘楼は焼失したものの戦災にも傷つくことなく、現在も鐘楼跡に置かれている。

   地図はここです


TOPへ戻る一覧に戻る


(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2005年10月号)
Copyright (c) 2005 H.Okuyama. All rights reserved.
本ページへの直接リンクはご遠慮下さい。必ずTOPページか歴史のみえる風景一覧へリンクして下さい。.

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO