史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


田塚・灯明寺畷( にったづか 福井市 新田塚町
 新田義貞戦没伝承地


 鎌倉幕府が倒れ建武政府が成立して間もない建武元年九月、後醍醐帝の新政府は越前守護に名族足利(斯波)尾張守高経(以下斯波高経と表記)を補任する。
 しかし、後醍醐帝の施策は実情に合わず、寺社、武士など人心の支持を失い、ついに足利尊氏との衝突に発展する。越前守護斯波高経は当然ながら足利尊氏を支持し、行動を共にする。足利派と後醍醐派の永い戦いの始まりである。

 越前では「金ヶ崎(敦賀)攻防戦」、「府中(武生)攻防戦」「足羽七城の戦い」などが知られ、後醍醐派として越前に入った新田義貞と越前守護斯波高経を中心とした足利軍が死闘を繰り広げる。

 金ヶ崎の戦いで城兵を残したまま杣山に脱出した新田義貞は、建武5年2月、南朝全国一斉蜂起に応え、府中(武生、現越前市)を押さえる守護斯波高経を破り国府を占領。守護高経は足羽庄・藤島庄一帯(現福井市)に追い込まれ 、拠点黒丸城に拠った。
 しかし5月から始まった合戦は結着をみない中長期化し、義貞は閏7月2日、守護高経の拠点黒丸城に相対する燈明寺城から、僅か50騎を率いて出撃した。高経に味方していた平泉寺衆徒が籠もる藤島城攻撃の応援に赴こうとしたのである。

  ところが、途中で藤島城防衛の応援に黒丸城より出撃した守護高経配下の細川出羽守の部隊300余騎に遭遇、戦闘となり、眉間に矢を受けあっけない最期を遂げたのである。
 もっとも、守護方もはじめは討ち取った敵方の将が義貞とはわからず、守護高経が確認して義貞本人と判った。高経は時宗の僧に遺体を収容させ、 長崎称念寺(丸岡)で葬儀を執り行なわせている。

 江戸明暦年間、福井藩軍学者井原番右衛門は、この地で掘り出された古い兜を義貞のものとして鑑定。これを受け越前藩主松平光通は、「新田義貞戦死此所」という塚を建てた。これが現在の「新田塚」の始まりとなる。新田氏の末裔を称する徳川氏、特に幕府に対しての福井藩の政治的デモンストレーションの意味があった。

  兜の真贋や義貞の燈明寺城の所在は不明であるが、地理的に戦没場所がこの付近であることは間違いないであろう。昭和30年代までは付近一帯は水田であったが、今は市街地化されて、唯一史跡だけが往時を偲べるものとなっている。
 

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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2006年8月号)
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