史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


蕉宿泊地・洞哉宅跡(とうさいたくあと 福井市左内町)
 奥の細道ゆかりの地・祐海町

「月日は百代の過客にして行かふ年も又旅人也」の書き出しで知られる「奥の細道」。芭蕉が元禄時代に著した紀行本で、日本の紀行作品の代表的著作であり、芭蕉の著書の中でも最も知られた作品である。

 芭蕉が奥の細道紀行のために千住を旅立ったのは元禄2年3月27日(新暦1689年5月16日)であったとされる。
 日光、松島、平泉と北上し、日本海側に出て海岸沿いを越後、越中、加賀と南下し越前に入ったのは8月8日頃と推定される。吉崎で「汐越の松」をみてから、松岡天竜寺に泊まり永平寺を参詣し、いよいよ福井へ入ることになる。

 「奥の細道」の下りを引用すれば
「福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそかれの路たどたどし。爰に等栽と云古き隠士有。いづれの年にか、江戸に来りて予を尋。 遙十とせ余り也。いかに老さらぼひて有にや、将死けるにやと人に尋侍れば、いまだ存命して、そこそこと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に・・・」とある

 等栽とは洞哉のことで、10年前に江戸で親交のあった2人である。気が合ったのか芭蕉はここで2泊し、連れだって敦賀に向かっている。

 その芭蕉が宿泊した洞哉の家は、福井城下の足羽川南の祐海(ゆうかい)町にあったとされる。九十九橋から北陸道沿いに南下し、足羽山百坂から下りてきた道と北陸道が交わる辻を東に折れたところである。
 突き当たりが妙経寺で、その門前には善慶寺があり、近辺には顕本寺西光寺なども在った。洞哉宅は寺社や武家屋敷と違い小さい町家であり、その正確な所在をたどることは困難であるが、善慶寺に隣接してあったとされる。善慶寺は橋本左内の菩提寺としても有名であるが、戦後は妙経寺に統合し、その跡地の一部は左内公園となっている。
 洞哉宅跡の碑は左内公園の西南角に置かれている。この付近は寺社地が大半であったが、ちょうどこの一角だけ町屋が置かれていた。

 洞哉は芭蕉のために、顕本寺の修理作業現場から枕となる木っ端を調達したとの伝承が残っている。妙経寺、顕本寺の位置は往時と異なっているが、いまも近辺に所在する。
 

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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2006年10月号)
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