史のみえる
  ■■■福井市内にみられる 中世・近世・明治・大正期の残照■■■


佐又兵衛墓(いわさまたべい 福井市松本 三丁目)
 浮世絵の祖ともいわれる天才絵師の墓

 岩佐又兵衛は、摂津国河辺郡伊丹(現兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主荒木村重の子として生まれた。城跡は、現在公園として土塁、石垣、建物跡などが残され整備されているが、村重が入城するまでが伊丹城と呼ばれ、村重によって拡張整備され有岡城と改称された。
 しかし父村重は又兵衛誕生の翌年、織田信長に反逆を企て失敗。村重は僅かな供回りとともに城を脱出する。残された荒木一族はそのほとんどが殺害されるが、又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護され、母方の「岩佐」姓を名乗り成長する。

 後、織田信雄に仕えるも、武士というよりも絵を学び、やがて信雄のもとを離れ再び本願寺に寄宿し画才を磨いた。狩野内膳に師事したとされるもの の狩野派、土佐派、雲谷派など特定の流派に囚われない彼の作風は、元々武士の出自で在ったことと、本願寺に出入りした多くの画家や文人との交流があってのことであろう。

 その又兵衛に転機が訪れたのは彼が40才の頃であった。
 福井の興宗寺の僧心願が役僧として執務するため本願寺にやってきた。心願は、又兵衛の画を見てその画才を見て取り、越前への移住を強く進め、福井藩に絵師として推挙したと考えられる。
 

 この間の経緯は定かではないが、松平家に又兵衛の絵が残されたことや、一介の地方絵師が突然幕府から出府を命じられるなど、家康孫の越前藩主松平忠昌の推挙なしには考えられず、福井藩との強いつながりが見て取れる。
 江戸出府は寛永14年のことで、2度目の大転機であった。
 理由は川越の東照宮喜多院が焼失し、その再建のための拝殿に掲げる三十六歌仙図の作成であった。又兵衛は期待に応え川越東照宮の歌仙額や将軍家の調度品の制作にあたり、その後も江戸での生活を送り、妻子のいる福井に戻ることなく慶安3年(1650)73才で没した。

 墓はゆかりの福井興宗寺に置かれた。興宗寺はもともと福井別院(西別院)に隣接して在ったが、戦後現在地に移転した。寺移転後も墓はそのまま残されていたが、昭和62年宝永小学校の改築工事の際に興宗寺に移された。元の墓の位置にも碑が残されている。
 

▼通りに面して墓が置かれている ▼元の墓位置にも碑が建立されている

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(初出 「福井商工会議所報」Chamber 2006年11月号)
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