■■■南北朝から室町期、第一の家格を誇った管領斯波氏
(越前・尾張・遠江守護)の事績紹介を扱っています。
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  南北朝期の斯波氏(上)

〜 足利高経の生涯 〜

*本稿は「講演・講義・原稿」の再掲です

承4年(1180年)、源頼朝は反平氏の軍を起こした。初戦では敗れたものの諸氏の支援を得て、鎌倉の地に凱旋帰国し、12月12日、新築なった大蔵御所に入った。初の武家政権の誕生といえる。もっとも後白河法皇が生きている内は、頼朝は征夷大将軍に任命されることはなく、正式に将軍に任じられて大蔵幕府を開くのはこらから12年後であるが、実質上はこの時が鎌倉政権の誕生といえる。

 朝が大蔵幕府(現鎌倉市大蔵小学校地)を開くと、同族として麾下にはせ加わった足利義兼は、頼朝とは母同士が義理の姉妹であったことや、頼朝の妻北条政子の妹を娶ったこともあり、幕府内での地位を確固たるものとした。
 その足利氏であるが、北条氏の執権政治確立の時期には泰氏の代になっていた。足利氏は代々北条宗家(得宗)から妻を娶っていたため当然北条宗家(得宗)の与党と思われていたが、以外にも泰氏は、三浦氏と組んで、権力構成をめぐって宗家(得宗)と対立関係に入っていた北条朝時(北条支族名越氏)の娘との間に子をなした。これが斯波氏の祖といわれている家氏である。

 ちろん、北条得宗も直ちに巻き返しにで、娘を正室に送り込み、三男頼氏もうけさせた。このため足利氏の家督はこの頼氏に引き継がれることになるものの、泰氏の反骨精神は健在であった。源氏の正統が三代将軍実朝で絶えた後、足利氏の所領となっていた、源氏の聖地ともいうべき「奥州斯波郡」を家氏に分地したのである。斯波郡は源頼義・義家親子が前九年の役で、3万有余の大軍勢を 集結させ、前進基地にした源氏ゆかりの地であり、源頼朝が奥州藤原氏を攻撃したとき全軍28万4千人という大軍勢を集結させ閲兵した場所である。明らかに北条氏に対するあてつけであろう。
 氏は足利一門を代表する関東御家人として活躍するが、後に斯波氏が、数えればきりがない足利一族のなかで「将軍と同格」を称し、「一門第一の家格」いわれた所以は、幼少の足利当主を補佐し名代を務めていた他に、一つにはこの源氏の聖地ともいうべき斯波郡の領有にもあるのではなかろうか。

 て、家氏の曾孫が、足利尊氏と同年で室町幕府の宿老、また南北朝期の越前・若狭守護を努めた、足利(斯波)尾張守高経である。
 足利氏が鎌倉幕府と北条氏の打倒に立ち上がると、尊氏の信頼があつかった同じ年の高経も当然これに従い活躍する。建武元年には早くも越前守護に就任し、その戦歴は、湊川の決戦での楠軍の殲滅、灯明寺畷での新田義貞討伐など輝かしいものであるが、ここでは「湊川の決戦」での楠正成との死闘について触れてみる。

 武の新政後征夷大将軍を望む足利尊氏と朝廷との緊張がたかまり一旦は尊氏が京都を抑えるもの、陸奥守北畠顕家が奥州から京へ攻め上ると、一旦、京を追われ、九州に逃れる。
 しかし、尊氏はしたたかで、逃亡しながらも次の手を打つことを忘れていない。足利高経を長門探題として九州との連絡口とし、細川氏を四国に留め置き、水軍の支配を委ね、自分は僅かな手兵で逃れたのである。
 一方後醍醐天皇派は上洛阻止のため新田義貞と楠正成を兵庫に派遣して防戦に努め、史上有名な「湊川の決戦」が展開することになる。

 庫は、海路と陸路の二手で攻め上ってくる足利軍を迎え撃つには最適の位置で、新田軍は尊氏軍の上陸を阻止するため兵庫湊付近の和田岬に、楠軍は山陽道を進んでくる足利軍に対応できるよう山よりの会下山に軍を敷く。会下山は、現在でも神戸市内をすべて見渡せてかつ瀬戸内を航行する船舶も全て見渡せる絶好の位置にあり、ここに本陣を置いた楠正成はさすがとしか言いようがない。
 一方、足利軍は海路を尊氏本隊が、陸路・山陽道を尊氏弟の直義が指揮して攻め上ってきた。

 下山の楠軍からこの様子は手とるように見えた。時に建武3年5月25日。
さて、海路を進んできた尊氏の船団は、先頭細川水軍が兵庫の湊を通りこしてより京都に近い三宮あたりまですすみ上陸体制に入る。あわてたのは新田軍。もし、三宮に上陸されると、京都への道がふさがれ、山陽道を進んでくる尊氏弟直義の軍と完全に挟み撃ちにされ、最悪全滅 の事態に陥る。義貞自身は玉砕覚悟のうえでも、兵は必ずしもそうではない。このため当初兵庫湊の和田岬に陣を敷いていた新田軍は、浮き足だって、一斉に京都への連絡を確保するため、東に移動、この結果、兵庫湊はがら空き、尊氏本隊はゆうゆうと上陸を成し遂げ、かつ楠軍と新田軍は完全に分断されてしまった。新田軍は一旦は「生田の森」で踏 みとどまるも、足利軍に追い立てられ、楠軍を戦場に残したまま、京都に引き上げ。会下山から全てを見ていた楠正成の心情は今となっては、伺い知ることはできないが、 湊川に残ったのは700の楠軍と50万(実数はその半分ぐらいか)ともいう足利の大軍であった。

 正成は湊川に赴くとき、すでに死を覚悟していたことは「桜井の別れ」など伝承に残っており、生きて帰れる見込みが薄いことは本人も百も承知であったが、鎌倉幕府反体制悪党出身の楠正成は、戦の戦術もゲリラ戦で相手を苦しめたわけで、もともと鎌倉御家人武士のような価値観を持っておらず、負けても山の中に逃げ込むことも不可能ではなかった。実際本陣を敷いた会下山の北は六甲山脈に連なり無限の逃亡先となりうるはずであった。
 ところがここに正成が思いもしなかった事態が生じる。陸路を直義とともに進んできた高経軍が直義の本隊から分かれ高取山を迂回し、会下山のさらに奥側になる「ひよどり」に布陣したのである。
 正成の会下山からは兵庫の全てを見渡すことが可能であった、「ひよどり」はその会下山をも含んで全てを見渡すことができる絶好の場所であった(現在のひよどり公園)。
 おそらく、この布陣を見たとき楠兄弟ははっきり死を現実のものと悟ったのでないだろうか。
 平記はオーバーにも 700人対50万の戦いとするが、いずれにしてもひよどりに陣取った高経の軍が一斉に会下山への攻撃を開始すると、これに追われるように楠軍700全軍が会下山を駆け下って、直義軍に突入、赤松軍、細川軍は忽ち突破され、直義の本隊と激突、まさに獅子奮迅の戦い振り、そこへ追ってきた高経の軍が殺到。それでも楠軍700は果敢に戦いを進めた。現在この激突した場所、「蓮の池」には小さな石碑が建っている。
 しかし、所詮は多勢に無勢で、現在の時刻でいえば午後四時ごろには戦闘は終了し、生き残った楠軍主従は湊川北の民家に入り全員自刃し果て、遺体は足利氏の手で葬られ、首は後に尊氏の手のものによって遺族の元に送り届けられた。
 

下に続く

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本稿はFBCラジオ講座「足利(斯波)高経の生涯」(99年8月15日放送)を要約したものです。全文公開は未定です。

*本稿は「講演・講義・原稿」の再掲です

         

 

 

 

 

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