■■■南北朝から室町期、第一の家格を誇った管領斯波氏
(越前・尾張・遠江守護)の事績紹介を扱っています。
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  南北朝期の斯波氏(下)

〜 足利高経の生涯 〜

*本稿は「講演・講義・原稿」の再掲です

川の決戦が終わると足利尊氏は京から光厳上皇と豊仁親王を迎え、建武三年6月14日ついに上洛を果たした。後醍醐天皇や新田軍は比叡山に逃れ立てこもるが、この兵糧攻めの指揮をとったのも、足利高経であった。結果、後醍醐天皇は比叡山を降り、一旦は足利氏の軍門に下ることになる。
 しかし、高経にはまだ重大な任務があった。越前守護として、北国に落ちてくる新田義貞を討ち取る役目が担わされていた。
 こうして史上名高い、敦賀の金ヶ崎城の攻防戦と越前平野を舞台にした藤島の戦い、いわゆる足羽七城の戦いが展開することになる(これは別記)。この戦いで高経は若狭の守護を努める弟家兼と協力し、灯明寺畷で新田義貞を戦死に追い込むことになる。

 の後、高経は自ら若狭守護を兼務し、越前若狭の一括支配を実現するが、南朝勢力徐々に衰退するなかで、今度は足利氏内部での権力抗争が一族を巻き込んで引き起こされる。この抗争は室町幕府が足利尊氏と弟直義の2頭政治であったこともあり尊氏・直義の兄弟抗争にまで発展することにる。「観応の擾乱」といわれているのがそれである。この時高経は、尊氏のもとを離れ、一時弟直義側について行動したり、また、尊氏の子で直義の養子となっていた直冬が尊氏と対立すると、これまた、幕府から離反して、直冬与党として行動するなど、離反と帰順を繰り返すことになる。その理由はさまざまな憶測がなされているが、基本的に高経、すなわち斯波氏の家格の高さが原因と考えられる。将軍と同格と称し、足利一門最高の家格・格式を誇った斯波氏とすれば、湊川の決戦、新田軍の討伐など の功績に比較して得た恩賞は十分でなく、一方、尊氏からすれば、家格の高い斯波氏に十分な恩賞を与えることは将来に危険を残すことになりかねず、躊躇する側面もあった。このあたりが原因となって、二人は友であり、心を通じあわせながらも、離反が繰り返されたと考えるがどう であろうか。

 かし、尊氏が死んで2代将軍義詮の代になると斯波氏は急速に勢力を回復する。佐々木道誉と組んで、宿敵細川清氏を失脚に追い込み、康安2年7月高経は四男で13歳の義将を将軍執事として送り込み、義将の評定はじめが執り行われると、自らは後見人として幕政を管領した。
 このとき、奥州には弟家兼が奥州管領として、九州には次男氏経を管領として派遣しており、高経はさらに幕府中央に孫の義高を引付方頭人に、5男の義種を侍所頭人に付け、まさに幕府の要職を全て斯波一族で固めた。
 そして、貞治3年8月高経配下の大工によって将軍義詮の新御所・幕府の建設に臨み、翌年2月には竣工式を執り行った。これが三条坊門御所である。
 この時高経の屋敷は七条東洞院にあったが、火事にあったのを口実に、新幕府の近く三条高倉に同じ大きさの屋敷を構えた。現在の京都文化博物館が建っている場所がそれである。また斯波氏の分国は越前のほかに若狭、越中と広がり、その権力は安泰に見えた。
が、幕府内では斯波氏の勢力伸張に警戒感も生まれていた。また、康安の政変で細川氏没落に協力した佐々木道誉との関係も、道誉の娘婿である三男氏頼ではなく四男義将を執事にしたことにより、その後対立関係に入っていた。

 んな中、貞治5年8月興福寺が越前に持っている所領について高経が横領したと訴えられると事態は一転する。斯波氏の権力拡張を警戒していた将軍義詮や幕府の重臣達が一斉に高経の排除に乗り出したのである。
 貞治5年8月8日将軍義詮は義将の執事解任と斯波高経の追討を命じたのである。ここに至っては高経も進退がきわまり、二宮氏等斯波氏被官が三条高倉の屋敷から出撃し将軍の三条坊門御所を囲み、その間隙をぬって高経・義将親子は三条高倉の屋敷に火を放ち京都を北進、長坂越え若狭経由で一族越前に下り、高経は南条郡の杣山城に、義将は越前城崎の栗屋城に立てこもることになる。

 府の追討軍約7千の軍勢が、杣山と栗屋城を囲むが、栗屋浦や越前平野で一部朝倉氏がらみで戦闘があったくらいで大きな戦にはならず、何とか1年近く城を守りぬく。これまで将軍の追討令を受けた場合、細川清氏の例のようにたいてい自滅の道をたどるが、何とか持ちこたえたのは、斯波氏の家格の高さが影響していて、追討軍の士気がそれほど高くなかったためであろう。
 しかし、篭城もむなしく、貞治6年7月13日63歳にして、高経は杣山に病没する。 鎌倉幕府討伐から、南朝派との抗争、そして幕府の最高権力者から、一転して、追討を受ける身となって波乱万丈の生涯を杣山で閉じた。

 、斯波氏の復権は意外と早かった。
 高経の死は4日後には京につたえられ、その直後8月2日には義将の使者が将軍のもとに参上し、赦免交渉をはじめると、攻めあぐねていた幕府は直ちに赦免を決定し、9月4日には義将は早々と上洛を果たす。この後、義将は管領として細川派の全国守護の一斉更迭に踏み切り、越前守護職を奪還するとともに、名管領、日本史に残る名武将として斯波氏の全盛時代を築いていくことになる。
 

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本稿はFBCラジオ講座「足利(斯波)高経の生涯」(99年8月15日放送)を要約したものです。全文公開は未定です。

*本稿は「講演・講義・原稿」の再掲です

         

 

 

 

 

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