■■■南北朝から室町期、第一の家格を誇った管領斯波氏
(越前・尾張・遠江守護)の事績紹介を扱っています。
■■■

       
  奥州斯波氏(下)

〜 斯波氏の奥州支配と滅亡まで 〜

*本稿は「講演・講義・原稿」の再掲です

際斯波軍がどのくらいで立て篭ったのかははっきりしませんが、少なくて500多くても1,000人が限度でしょう。
 斯波軍の本隊は父高経とともに越前で新田軍を相手に激戦を展開中であり、嫡男の危機とはいえ援軍を出す余裕などは勿論ありません。
 太平記によれば12月28日杉本城は落ち、このため顕家軍は難なく鎌倉の中心に入ったことになっていますが、これは少し違うと思います。
 武衛系図では杉本城の戦いを25日としていること、地元の記録に戦闘が3日間続いたことが残っていることから、25日から28日まで10万の大軍を相手に3日にわたって 戦闘を続けたことがわかります。討ち死にした者は300名に達し、局地戦のわりには犠牲者が多く、激しい戦いであったと想像されます。
 また上杉軍や桃井軍に一人の戦死者も出ていないことから、戦ったのは斯波軍だけで、後はさっさと逃げ出したことがわかります。
 斯波家長も落城とともに、斯波の宿老とともに自刃して果てました。まだ17歳の若さでありました。

 家は正月を鎌倉で過ごした後、1月8日京を目指し、鎌倉を出発、美濃国青野ヶ原で 迎え撃つ足利方の軍を撃破するものの、顕家軍の疲労も大きく、急に方向をかえ、伊勢路を通って畿内に入り、各地に転戦するが、5月22日、高師直の軍と和泉国阿倍野に 戦って敗死し ます。これまた21歳の若さでありました。死の直前、6ヶ条にわたって後醍醐帝の「建武の新政」の誤りを手厳しく批判していることは 、あまりにも有名です。

 て、奥州斯波はどうなったでしょうか。家長は17歳で自刃したため子供がなく、跡を継ぐものがいない状態で、武衛系図によると斯波氏一族から養子が入って 、跡をついだとされています。
 しかし南朝軍と激烈な戦闘を展開している斯波氏からも、すぐに後継者を送り出すことは無理で、しばらくは元のように奉行人を送り込んで代官支配に戻ったものと考えられます。
 やがて北朝方の支配が優勢になってくると、高経の弟で若狭守護にあった家兼が奥州探題として奥州に下り(後に大崎氏を名乗る、また家兼の次男兼頼は出羽探題に任ぜられ最上氏を名乗る)、東北支配が強化されるなかで、斯波氏の本来の支配地である斯波郡について代官支配 を止め、家長の養子として系図にもありますが詮経を養子として送り込み跡を継がせ、斯波郡高水寺に館 (御所)を構え定住することになったと考えられます。
 高水寺は、源氏の聖地ともいうべき、斯波郡陣ヶ岡の東にあり、現在も城山として御所跡がよく整備されて保存されています。館と城を兼ねたかなり大規模なもので、一帯は城詰の常勤武士団のほかに、配下の武将の屋敷などもあり、かなりの城下町を形成していたと考えられます。

 を戻して、もう一度系図を参照下さい。実は養子のこの詮経の身元ははっきりしていません。地元岩手県では大崎氏から養子に入ったとする主張もあり、記録も混乱していますので、どれが正しいかは一概に断定することはできませんが、 「将軍のご一門」、「奥州探題大崎氏、羽州探題最上氏の本家」として「足利御所」とも「斯波御所」とも称され。以後200年にわたって栄えたこと、武家の棟梁、源氏ゆかりの地であるだけでなく、斯波氏にとって先祖伝来の地であることを考えれば、大崎氏から養子に入っ たとするのは無理があるような気がします。
 やはり高経の直系から養子に入ったとするのが妥当ではないかと私は思います。ところで高経には5人の男子がありました。長男の家長が17歳で杉本城で自刃したため、家督は高経が一番可愛がった四男の義将が 継ぎますが、次男氏経は高経とともに各地を転戦し一時は 若狭守護や越前守護にも補任された人物です。
 また、三男氏頼の室は、ご存知バサラ大名佐々木道誉の娘でありますが、二人とも世をはかなみ隠棲したとされます。五男の義種の系列は加賀の守護を経た後大野郡の郡守護となります。私は俗世間から隠棲したこの次男、三男の系列から入ったと見るのが妥当ではないかと思います。

 次男氏経や三男氏頼の系列がどうなったのかは、越前の中世を考えるときなかなか面白い問題です。五男の義種の系列が、大野郡の 郡守護になったことは先に話ましたが、今立郡にも郡守護が置かれていた可能性が高く、この今立郡を支配した斯波氏の一族は身分も高く将軍家との交流もあり、また奥州斯波氏とも交流 し、奥州が馬の産地でもあることから名馬を取り寄せたりしていたようです。資料によればこの血統が絶えたとき、 武衛家(宗家)や大野郡守護家からではなく遠く奥州から養子に入ったとの記録もあり、 濃い血縁が見てとれることから、やはりこの次男か三男の血統が家長の養子として奥州斯波に赴いて奥州斯波氏・斯波御所を名乗ったと考えるのが妥当ではないかと考えます。

 の推測ですが、次男氏経の系統と考えます。氏経は家長亡き後それまで家督継承者の立場にあったわけで(実際父の高経が幕府への反抗と帰順を繰り返すなかで、父高経に代わって一族を支え、越前守護も務めたりしていた)、本来執事(管領)職にも氏経が就くのが当然で したが、当の本人が「執事(管領)職など家臣のやることで、将軍と同格の足利尾張家(斯波氏)のやることではない」と反対の立場をとっており、それ と高経の義将溺愛とが重なって、執事(管領)職ならびに家督が四男の義将に譲られたわけで、氏経の嫡男義高を幕府の引付方頭人に就けただけではおさまりがつかづ、「聖地」斯波郡を引き渡したと考えますが、いかがでしょうか。

 波御所の家臣団の構成は現在十分には判っていませんが、実務は執権といわれる家老職が4名でとっていたようです。近習以下直接城詰めに常時300人ほど手兵があったと伝えら れ、領地を支配する知行武士団もおり、1,000石どりを筆頭に、大体が100石から500石が大半であったことがわかっています。また近隣には重臣の屋敷跡の伝承が15以上現在も残っています。
 足利政権存続中は御所としてあがめられていましたが、その衰退にともなって勢力を失い、やがて滅亡においやられた家柄であるため、歴代の事蹟は現在では殆ど残っていません。奥州斯波系図は家長から10代を伝え、別の資料では7代説もありますが、200年にわたって栄えたことを考えれば10代説が妥当なとこ ろでしょう。一時は雫石盆地にも進出し雫石御所も構えたわけですが、天正年間はじめ10代詮直が御所を継ぐころからかげりが見え始めます。

 の時期、足利将軍家も義輝が倒れ、信長の手によって義昭が第15代将軍につくものの信長と対立し京を追放され、またそれより先、三管領筆頭で武衛様と呼称されたもの の、越前を朝倉氏に奪われ、形だけの尾張守護として存続してきた斯波宗家も信長によって追放されているわけで、斯波御所の権威の衰退は止めることはできなかったようです。天正14年南部氏は雫石に侵攻し、9月29日雫石御所を攻略し ています。そして信長に京を追放されて以来、備後の鞆でしぶとく幕府をひらいていた足利義昭が、関白豊臣秀吉の勧めで天正16年1月将軍職を辞任し京都に戻り、名実ともに足利時代が終わると、斯波御所への攻撃を開始し ました。
 きっかけは家臣との不和であったといわれています。謀反の鎮圧にむかった最後の斯波御所、家長から数えて10代目の斯波詮直に従うものが少ないことや 、斯波軍の士気の衰えを見て取った南部信直は、天正16年7月10日ついに斯波に攻め入りました。しかし御所側の対応はきわめて鈍いもので、重臣や家臣団も御所からの呼びか けに応えたものは少なかったといわれています。僅かに岩清水肥後守が300の兵で御所の防衛にたちあがり、あと若干の家臣団が義を重んじて最後の防衛戦に出陣したと記録されているものの、8月2日には詮直は包囲された斯波御所から出て、事実上亡命を余儀なくされました。

 利政権の確立とともに、奥州の地にあって将軍のご一門、斯波御所として200年にわたって栄えた家柄であ りましたが、ここにその終焉をむかえたわけです。
 

上に戻る

TOPへ一覧へ戻る


Copyright (c) 2001 H.Okuyama. All rights reserved.
本稿はFBCラジオ講座「奥州斯波氏」(2001年7月1日放送)の一部を省略・要約し 、一部は加筆したものです。

*本稿は「講演・講義・原稿」の再掲です

         

 

 

 

 

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO