■■■南北朝から室町期、第一の家格を誇った管領斯波氏
(越前・尾張・遠江守護)の事績紹介を扱っています。
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  決戦! 金ヶ崎の戦い(下)

〜 足利(斯波)軍と新田軍の越前敦賀での死闘 〜

*本稿は「中世越前若狭探訪」の再掲です

窮地にたつ金ヶ崎

 さて、金ヶ崎城に籠もる義貞軍はじりじりと包囲網を狭めてくる幕府方の攻撃に耐えて、建武三年の冬を過ごしました。しかし、明けて正月になると、足利尊氏は、宿敵新田義貞打倒に燃え、二万騎にも及ぶ大軍を編成し、 金ヶ崎城攻撃と守護斯波高経支援へと向かわせました。足利軍を先導するのは、高師泰、今川頼貞、小笠原貞宗、塩冶高貞、仁木頼章らそうそうたるメンバーで、足利の援軍が金ヶ崎を何重にも包囲し、城は完全に孤立した状態に置かれました。
 正月十八日に最初の本格的な合戦があったといいます。太平記はこの間の戦いについて虚実を織り交ぜて物語を展開しており、何処まで史実かは判然としませんが、ここではそれらを参考に金ヶ崎落城に至るまでを見ていきましょう。
 足利軍の厳重な包囲で金ヶ崎の食糧が尽きたことを知った瓜生保兄弟は、食糧救援に杣山を出撃します。しかし、これはすぐに足利軍の知るところとなり、足利方は今川頼貞を大将にして迎撃にでました。瓜生軍が、もう一つ山を越せば金ヶ崎を視野に捉えられるという樫曲地区にかかった時、悲劇が起きます。瓜生軍は、待ち受けた足利方にその行く手を阻まれただけでなく、足利の大軍が猛然と襲いかかってきたのです。攻撃するほうと守るほうでは明らかに攻撃が有利です。しかも瓜生隊の目的は食糧の搬送ですから 、何としても荷駄隊を守らなければならないという使命があります。こうして瓜生軍は多勢に無勢のなか、乱戦のうちに全滅していきました。瓜生保もこの時戦死したと伝えられています。
 金ヶ崎城に篭る新田軍の期待もここに空しく散り、孤立した城はさらに絶望状態となり、『太平記』によれば、食糧に窮した城兵らはまず馬を食し、最後には死者の肉を食らうにまで至ったと書いています。

金ヶ崎落城

 万策尽き果てた義貞は籠城戦の不利を察して、弟脇屋義助、公家の洞院実世ら七人で、河島惟頼に道案内をさせて、闇夜を利用して密かに金ヶ崎城から杣山城へ脱出したといいます。嫡男義顕と二人の皇子は金ヶ崎城に残したままでした。善意に解釈すれば、杣山で体制を立て直し、そこから金ヶ崎城を包囲する足利方に 攻撃を加え、金ヶ崎を救出する作戦ですが、意地悪くみれば、大将が城兵を見捨てたわけで、湊川の決戦で楠正成を置き去りにして逃亡し、敗死に追い込んだ 「前科」がありますから、「またか」と厳しい見方をする人も少なくありません。もともと南朝寄りに書かれている『太平記』が、こと新田義貞については評価が低いのも、このあたりに起因しているのかも知れません。
 そして、三月三日からのいよいよ最後の決戦を迎えます。
 必至の防戦に向う新田軍ですが、食糧が尽きているなか、兵は思う通りに動くこともできず、一の木戸は破られ、足利軍は本丸をめがけて殺到します。二の木戸が破られるのも時間の問題となってしまいました。

 飢餓と疲労で、体力はなく、城兵は次つぎと討ち取られていきます。義貞嫡男の新田義顕は最後の時が来たことを認めざるを得ず、尊良親王とともに自害して果てました。一説によれば、新田義顕は尊良親王に守護斯波高経に降伏することを勧めたともいわれています。名族斯波高経であれば親王を粗略に扱うことは無いとの読みであったとされています。しかし足利軍は混成部隊であり、運良く高経の下に 辿り着けるかどうか不明であるうえに、親王自身が自刃を強く希望したこともあり、義顕も受け入れたとされています。
 三月六日、金ヶ崎城はここに落城のときを迎えました。
 親王の自刃された場所(推定地)は、本丸の近くで、現在では碑が建立されております。また城跡を訪れる方のために、一の木戸をはじめ各木戸にも案内板がたてられており 、堀切跡も明瞭で見て回りやすい城跡です。一時間もかければ大体一周できます。

 さて、もう一人の恒良親王は、気比大宮司斉晴に連れられ城を脱出、小舟で蕪木浦(かぶらきうら)に逃れ、洞窟に身を隠したものの発見され、守護高経に保護された後、義顕の首とともに京に送られました。その恒良親王が隠れた下長谷の洞窟は 、現在も河野村甲楽城に残っており、史跡として地元の人達によって整備されています。国道三六五号沿いで洞窟の前には駐車場がありますので、海岸をドライブのついでに足を停められてはどうでしょうか。


それからの越前 エピローグに代えて

 金ヶ崎落城後の越前はどうなったでしょうか。今回はその後の状況を概観してこの物語を閉じることにします。
 新田義貞は、しばらくの間は杣山で逼塞を余儀なくされましたが、再び活動を開始し、府中を拠点とする守護斯波高経と対峙します。そして建武五年二月、今立郡鯖波宿に偵察に出た脇屋義助の軍に 、斯波方の細川出羽守が攻撃をしかけたことから、両軍の全面戦争に発展します。
 その結果、斯波高経は府中を没落する破目となり、足羽の黒丸城を中心とした足羽七城に立て篭もります。
 黒丸城跡(福井市黒丸町)は、昭和三十年代までは、僅かに遺構を留めていましたが、残念ながら耕地整理で遺構は消滅し、今では高屋橋に通じる新道の近くに建てられた城跡碑のみが 、往時を偲べる唯一のものとなっています。

 しかし、高経が築いた足羽七城の連環城砦群は巧妙でした。実際には十数個の城砦から成り立っていましたが、一つ一つの城砦もさることながら、それらが相互に近隣に在り、全体で攻撃、防御に備えるつくりとなっており、一つの城を攻撃すると、他の城から出撃した兵が背後を襲う仕組みで、春先からはじまった戦いは長引きすでに夏になっていたのです。
 そして運命の建武五年閏七月二日がやってきます。この日新田義貞は、守護斯波高経の篭る黒丸城の向かい灯明寺に在りましたが、新田軍が攻撃していた藤島城がいつまでも落城しないため、義貞はわずか五十騎を従えて偵察に向かいました。
 この時、高経方の黒丸城からも三百騎の軍が藤島城の救援に出撃し、義貞軍と行き当り遭遇戦となったのです。斯波軍の兵は一斉に弓を射り、義貞は深田のなかに倒れこみ、自刃に追い込まれてしまいました。あっけない最後であったといえます。
 遺体は守護斯波高経の命で、長崎称念寺(現丸岡町)に送られて葬儀がとりおこなわれ、現在も墓所が守られています。
 

 また、江戸時代に入った明暦2年に灯明寺の田から冑が出土し、時の福井藩主松平光通は、この冑を義貞のものと認定し、出土地に石碑を建立しました。これが新田塚の起こりで、大正時代には国の指定史跡「燈明寺畷新田義貞戦没伝説地」となっています。

 この後も暫くは新田軍も抵抗をつづけ、一時は巻き返しに成功しますが、弟の脇屋義助もやがて美濃に逃亡して、越前は守護斯波高経のもとあらたな支配秩序が形成されていくことになります。
 

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関連サイト「金ヶ崎城跡」(新越前若狭城跡考)

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本稿は福井商工会議所報「Chamber」2003年1月号に掲載したものを一部補筆したものです。無断転載はお断りします。
*本稿は「中世越前若狭探訪」の再掲です

         

 

 

 

 

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