領家波氏 (しばし)

■■■南北朝から室町期「第一の家格」を誇った斯波氏■■■

 

室町幕府創生期の宿老・足利(斯波)高経
父足利家貞、母大江時秀女 嘉元三年生まれ、通称孫三郎

 波氏の祖といわれる家氏は、足利一門を代表する関東御家人として活躍し、後に斯波氏が、数えればきりがない足利一族のなかで「将軍と同格」、「一門第一の家格」いわれ る基礎を築いたが、その家氏の曾孫が、足利尊氏と同年で室町幕府の宿老、また南北朝期の越前守護を努めた、足利(斯波)尾張守高経である。
 足利尊氏と同年で信頼も厚く、尊氏が鎌倉幕府と北条氏の打倒に立ち上がると、高経も当然これに従い活躍する。建武元年には早くも新政府から越前守護に就任し、その戦歴は、湊川の決戦での楠軍の殲滅、灯明寺畷での新田義貞討伐など輝かしいものがある。

 武の新政後、征夷大将軍を望む足利尊氏と朝廷との緊張がたかまり尊氏軍は、建武3年1月10日には京都に突入するも、奥州から駆け上ってきた顕家軍の動きは素早く、1月27日には足利軍は敗北。このため30日には尊氏は京を脱出し、足利氏は九州に逃れる。 高経もこれに従ったが、九州には同行せず、長門探題として九州との連絡にあたり、再度の上洛に備えた。

 九州で再起を果たした尊氏は京に向けて出発、5月25日には海路と陸路かた兵庫に迫り、湊川の決戦で新田軍、楠軍を打ち破る。高経は陸路をすすみ、楠軍の討伐に功績をあげた。その後、尊氏は京から光厳上皇と豊仁親王を迎え、6月 1日ついに上洛を果たす。後醍醐天皇や新田軍は比叡山に立て篭ったため、足利軍は兵糧攻めを行うが、その指揮をとったのは高経であった。結果、後醍醐天皇は比叡山を降り、一旦は足利氏の軍門に下ることになる。
 高経の次の任務は、越前守護として、北国に落ちてくる新田義貞を討ち取る役目であった。
 こうして史上名高い、敦賀の金ヶ崎城の攻防戦と越前平野を舞台にした藤島の戦い、いわゆる足羽七城の戦いが展開することになるが、高経は若狭の守護を努める弟家兼と協力し、 苦戦の末、最後には灯明寺畷で新田義貞を戦死に追い込むことになる。

 の後、高経は自ら若狭守護を兼務し、越前若狭の一括支配を実現するが、南朝勢力徐々に衰退するなかで、今度は足利氏内部での権力抗争が一族を巻き込んで引き起こされる。この抗争は足利尊氏と弟直義の兄弟抗争にまで発展 (「観応の擾乱」)、高経も尊氏への離反と帰順を繰り返すことになる。その理由はさまざまな憶測がなされているが、基本的に足利尾張家(斯波氏)の家格の高さが原因と考えられる。足利一門最高の家格・格式を誇った 尾張家(斯波氏)とすれば、湊川の決戦、新田軍の討伐などの功績に比較して得た恩賞は十分でなく、一方、尊氏からすれば、家格の高い尾張家(斯波氏)に十分な恩賞を与えることは将来に危険を残すことになりかねず、躊躇する側面もあった。このあたりが原因となって、離反が繰り返されたと考えるがどう であろうか。

 かし、尊氏が死んで二代将軍義詮の代になると斯波氏は急速に勢力を回復する。宿敵細川清氏を失脚に追い込み、康安2年7月高経は四男で13歳の義将を将軍執事として送り込み、自らは後見人として幕政を管領した。
 幕府内では斯波氏の勢力伸張に警戒感も生まれていた。
 そんな中、貞治5年8月興福寺が越前に持っている所領について高経が横領したと訴えられると事態は一転、斯波氏の権力拡張を警戒していた将軍義詮や幕府の重臣達が一斉に高経の排除に乗り出したのである。
 貞治5年8月8日将軍義詮は義将の執事解任と斯波高経の追討を命じたのである。ここに至っては高経も進退がきわまり、高経・義将親子は屋敷に火を放ち、一族で越前に下り、高経は南条郡の杣山城に、義将は越前城崎の栗屋城に立てこもることになる。

 府の追討軍が、杣山と栗屋城を囲むが、 斯波氏の家格の高さが影響していて、追討軍の士気がそれほど高くなく、大きな戦にはならず何とか一年近く城を守りぬくが、翌年7月13日63歳にして杣山に病没 (法号道朝)。 鎌倉幕府討伐から、南朝派との抗争、そして幕府の最高権力者から、一転して、追討を受ける身となって波乱万丈の生涯を閉じることとなった。

 しかし、斯波氏の復権は意外と早く、高経病没後、義将は赦免交渉をし、許されて幕府に復帰、やがて、名管領、日本史に残る名武将として斯波氏の全盛時代を築いていくことになる。
 

詳細は足利高経の生涯を参照

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