領家波氏 (しばし)

■■■南北朝から室町期「第一の家格」を誇った斯波氏■■■

 

奔流の武衛・斯波義寛 (その1)
しばよしひろ(よしとう) 長禄元年頃?〜永正四年頃?

 斯波義敏の嫡男。幼名は松王丸、成人して義良、後に義寛を名乗る。父義敏が守護代甲斐氏や朝倉氏と激しく対立し(長禄合戦)、長禄三年五月甲斐氏の守る敦賀城を攻撃し逆に敗退、将軍義政の怒りに触れ、家督没収、周防に没落を余儀なくされ、幕命 により六月僅か三歳で武衛 (斯波家督)の名跡を継いだ。
 ところが、寛正二年九月、将軍義政は突然家督の松王丸を排し、斯波家の遠縁にあたる義廉(渋川氏)を斯波家督に任命し、甲斐氏・朝倉氏に補佐を命じた。背景には 鎌倉公方足利成氏の追討に斯波氏軍勢が期待されているものの、家督が幼児では軍勢催促上期待できない点や、渋川氏がこの戦いで 重要な位置を占めており、渋川氏を優遇したい幕府 の考え、さらに成氏追討で、朝倉氏など斯波氏宿老が関東で渋川氏と同じ陣となり、関係を深めたため、支持を得やすいとの読みもあったと推定される。

 守護代甲斐氏は、対立する義敏の子であっても、武衛の血筋(貴種)として松王丸を推戴していたと考えられる。しかし、越前きっての実力者守護代甲斐常治が没した跡、斯波氏宿老のなかで相対的に朝倉氏が浮上 するなか、朝倉孝景は、長年の守護斯波氏−守護代甲斐氏の関係に楔を打ち込む契機として渋川氏支持に回り、甲斐氏も最後は了解したと考えられる。
 この更迭は、事実上の斯波家の分裂であり、後の応仁の乱の原因をつくり、さらに朝倉氏による越前押領へと至る一連の抗争の出発点となった点でも 、重要な事件であったといえる。

 しかし、父義敏もこの事態に対抗して、懸命に復帰工作に乗り出し、、義廉の父渋川氏の失脚もあり、寛正六年十二月、ついに将軍義政に許され京に戻り、義廉と家督争いを演じることになるのである 。なお松王丸もこの時相国寺を出ている。
 文正元年七月、斯波氏の家督は将軍義政から再び義敏に与えら れ、越前・尾張・遠江の三国守護職も還付されたが、反義敏で義廉支持の重臣甲斐氏、朝倉氏、織田氏と義廉を娘婿とする山名宗全らの排撃に合い、結局二十日で 義敏は解任され(文正の政変)、近江さらに越前に逃れた後、細川勝元らとともに東軍として応仁の乱の口火を切り、西軍に属した義廉さらに甲斐氏、朝倉氏などと激しく対立した。
 乱勃発時、松王丸は祖父とともに京屋敷(三条烏丸の「下屋形」)にいたが、朝倉氏に囲まれ、父の居る越前に一時下国した。

 一方、父義敏は越前支配に乗り出し、将軍義政が中立から東軍寄りに転じると、家督も還付され、「武衛」の権威で、西軍に就いた甲斐氏、朝倉氏を圧迫し、 特に朝倉氏の地盤を中心に一時は分国越前をかなり押さえたと考えられる。このため、西軍に留まることの不利を悟った朝倉孝景は、越前に下国し東軍の矛先を甲斐氏に向けさせるため、東軍に寝返り、 地盤の確保に努めるとともに、かつて自分が排撃した斯波松王丸を推戴し 、徐々に支配地の拡大に乗り出す。この時朝倉氏は、将軍義政から甲斐氏に代わって越前守護代に任じられたという。

 前守護代甲斐氏と朝倉氏の越前争奪戦は、激戦につぐ激戦であったが、次第に斯波氏を推戴する朝倉氏の優勢となっていき、拠点のない地域は反朝倉の姿勢を固守する二宮氏が篭る大野郡のみを残すのみという状況になっていった。
 松王丸が越前にいたのは僅かの期間で、この頃には在京していた。そして文明四年十二月元服し、従五位下治部大輔に任ぜられ義良を名乗るが、今度は甲斐氏 も西軍にとどまることの不利を感じ、京に戻り義良に出仕し、東軍 (幕府)に帰属し、朝倉氏の勢いを止める動きにでた。

 ところで、ここまで大野に在って、朝倉氏の越前平定を見ていた父親でもある守護斯波義敏は、甲斐氏がすでに斯波氏(義良)に出仕し、幕府に帰順したにもかかわらず、朝倉氏が一向に矛を治めないことで、朝倉氏の「越前乗っ取り」を懸念しはじめ、反朝倉の態度を固めるに至る。
 そして二宮氏が篭る大野土橋城に突然入城し、朝倉氏に抵抗の姿勢を見せる。しかし、朝倉氏は、一時は守護斯波義敏が城内にいるため攻撃を手控えるものの、やがて強行策に撃ってで、このため 守護義敏も城外に避難せざるを得ず、結果、朝倉氏は土橋城を落城に追い込み、二宮党も国外へ追い落とした。
 また、守護義敏を護衛して京へ送り出し、越前一国支配を手中にすることに成功する。

 このことは、 元服した義良にとっても大きな衝撃であった。

 この前後、義政と家督を争った西幕府管領斯波義廉が、朝倉氏に続いて甲斐氏までもが寝返ったため、京を離れることを決意し、尾張守護代織田敏広を頼って尾張へ下向して行った。この時まで斯波氏の京館(武衛陣)は義廉が押さえていたが、これに伴い、武衛陣を義敏、義良親子が奪還・接収するとともに、越前を一時棚上げし、義廉が下向した尾張対策を本格化させる。

 文明八年十一月、東軍派にあった織田敏定に尾張下向を命じ、義廉派の尾張守護代織田敏広の拠点にしている尾張守護所(下津)を攻撃させ、これを一旦は奪取させ、義廉ともども追い落とすことに成功する。しかし、直後に反撃され、敏定はやむなく京に引き返す。
 この事態を受けて、斯波氏は正式な守護代更迭を固め、幕府にも働きかける。文明十年九月幕府は尾張守護代を織田敏広に代えて織田敏定に命じるとともに、合わせて尾張の凶徒退治を命じている。

 翌十月尾張守護代となったの織田敏定が、再び尾張に下向し、西軍義廉と前守護代となった織田敏広の拠点清須城を攻撃、奪取し、入国を果たす 。
 このため、敗れた義廉と織田敏広は同じ西軍の美濃守護代斉藤妙椿の支援をえて、清洲城奪還に乗り出すが、敏定は何とかこれを退けている。
 文明十一年織田敏広は、すでに正式に幕府から守護代に任じられている織田敏定とこれ以上抗争を続けることの危険を感じてか、清須城を断念し、敏広は岩倉城を居城とすることで和睦に踏み切る。 両家による分割統治のはじまりである。

 このように尾張国内で一定の安定状態が保たれることとなったため、この年閏九月、斯波義良は、「朝倉退治」を掲げ、満を持して甲斐氏、二宮氏を引きつれ越前に下向した。

 成人としての斯波義良の力量が試される時がきたのである。

(続く)

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