領家波氏 (しばし)

■■■南北朝から室町期「第一の家格」を誇った斯波氏■■■

 

日本史から消えた管領・斯波義廉

 享徳元年(一四五二)九月一日、三管領筆頭で越前・尾張・遠江守護の斯波家当主(武衛)斯波義健が死去した。しかし義健は一八歳でまだ嗣子がなかったため、一族の斯波持種(大野氏) の子義敏が養子となり、家督を継承した。ところが義敏は、守護代で宿老の甲斐氏、織田氏、朝倉氏と意見が合わず対立 、越前は騒然とした(長禄合戦)。
 しかし、幕府は鎌倉討伐に向けて斯波氏を総大将とすることを決めていたため、将軍義政や管領細川勝元が仲介に動き和解するも、義敏は鎌倉討伐に向かう軍を敦賀城にいた守護代甲斐氏の襲撃に向け、しかも敗北を喫したため、将軍義政の怒りに触れた。その結果、義敏は家督 を剥奪され、子の松王丸に一旦は継承される。しかし、義政の命で、松王丸も相国寺に入れられ、代わって足利一門で斯波氏とも関係の深い渋川義鏡の子が、 曾祖母が斯波義将の娘ということもあり、斯波氏を継ぎ家督とされた。これが斯波義廉である。
 背景には、関東公方足利成氏への対抗に渋川氏を活用したい幕府の思惑もあった。
 ここから、義廉の波乱万丈の人生が始まる。

 京を追われた義敏は、周防の大内氏を頼り、執拗に赦免交渉を行った結果、寛正六年十二月ついに将軍義政から帰洛が許され、京に戻った。 義廉の父渋川義鏡の失脚も絡み、義廉への支持が揺らいでいたと考えられる。
 このため義廉も危機意識を持ち、京には甲斐氏・朝倉氏・二宮氏の被官人がかなりの数いたが、尾張守護代織田氏に命じて追加の軍勢を召し寄せ、越前・遠江からも軍勢を上洛させた。斯波氏の館は室町通り勘解由小路にあった(武衛陣と呼ばれた)が、義廉は抗争に備え、館のあちこちに櫓をあげ、濠を掘り万全の体制をとった。都では「建武以来、このようなことは無かった」と言われたほどであった。

 翌文正元年(一四六六)七月になると、将軍義政は、すでに家督を継いでいた義廉からこれを剥奪し、義敏に与え三国守護とした。
 しかし守護代甲斐氏をはじめ斯波氏家臣らの反対と、義廉を女婿とする山名宗全が激怒し排撃したため、わずか二十日で義敏は解任され(文正の政変) る。義敏は一旦近江、尾張に逃れた後越前に入り、後、細川勝元らとともに東軍として応仁の乱の口火を切った。

 一方義廉は再び家督とされ、文正元年九月十四日、在京している甲斐左京亮、朝倉氏景、織田広近を従え幕府に出仕、三国守護にも返り咲き、山名氏らの支援で畠山政長に代わり、応仁元年(1467)正月管領に就任した。そして、五月、応仁の乱の勃発と共に山名 宗全とともに西軍に参加し、管領として最高責任者の立場に立つものの、はじめ中立を保っていた将軍義政が徐々に東軍よりになるなかで、室町幕府は、将軍は東軍、管領は西軍という事態になった。 一説(雑事記)には、この事態に動揺した義廉は、一時東軍に帰順を考えたが、東軍がこの乱で大暴れしている朝倉孝景の首を要求したため、これもならず、戦乱の渦中に引き込まれたとするが、単なる噂であろう。
 六月中旬東軍は、西軍の最高責任者管領斯波義廉の屋敷(武衛陣)を包囲攻撃したが、多くの大名の京屋敷が焼失するなか、武衛陣は落ちなかった。それは、前年からの義敏との抗争ですでに要塞化されていたことと、何よりも、長禄合戦で戦慣れした甲斐氏、朝倉氏の奮闘が大きかったためである。

 しかし、翌二年七月西軍の最高責任者を務める義廉は東軍となった幕府(義政)より、管領を解任され、武衛家家督も剥奪される憂き目に合う。もちろん引き続き西軍では管領であり武衛であり、甲斐氏、朝倉氏、織田氏をまだ掌握しており、十一月には東軍にいた足利義視が義廉邸(武衛陣)に入り、西軍に迎えられ、将軍足利義視、管領斯波義廉で 西幕府を発足させ西軍の強化、正当化をはかり、将軍義政の執政に対抗する。西幕府は関東公方との融和も模索したおり、分国の面積では東幕府を大きく上まわっているが、綻びは足元に迫っていた。
 強固な支配力を有する守護代甲斐氏とともに戦う限り、いつまでも甲斐氏の風下に立たねばならない朝倉氏は、斯波義廉と甲斐氏の下を離れることを決意、越前に下国した後、自立を求め東軍に寝返った
 そして越前の支配を賭けて甲斐氏と戦い、有利に戦を進めると、甲斐氏、二宮氏も西軍に居ることの不利を悟り、文明六年十二月幕府(東軍)に帰順し、義廉は有力な被官人を失い、一気に力を削がれることとなった。

 文明七年十一月、朝倉氏や甲斐氏等有力被官の幕府帰順で、孤立した西幕府管領斯波義廉は体制を建て直すため京を離れ、尾張守護代織田敏広(西軍)を頼り、尾張へ下向した。しかし、戦乱は尾張でも同じであった。織田氏庶流の織田敏定は母が朝倉氏ということもあり、東軍に帰属して主流の守護代家で西軍の敏広を攻撃、文明八年には守護支配の拠点下津を攻撃、義廉は敏広に守られ国府宮に逃れた。尤も、その後巻き返して再び下津を奪還し、敏定を尾張から追い出した。
 しかし、敏定も幕府の「義廉追討令」や尾張入国にむけての支援をうけ、再び入国、その後は美濃守護代斉藤妙椿の調停もあり、支配地を二分することになる。しかし、敏広が死没すると跡を継いだその子千代夜叉丸は、西軍に留まることに不安を感じたのか、幕府に帰順し義敏−義良(義寛)に出仕した。ここに到って義廉は有力被官人を全て失う羽目に陥ってしまったのである。
その後の義廉の動静ははっきりしない。一時、西軍の六角氏を支援するため斉藤妙椿とともに近江に出陣したとされるも、義廉の足跡はここで消えて、日本史ではその後は行方不明として処理されている。

 一方越前は、朝倉氏と朝倉退治を掲げる斯波氏が、甲斐氏、二宮氏を引きつれ越前に入り、戦闘はいつはてるともなく続いていた。
 そのような中、文明十三年七月、傑物朝倉孝景の死で窮地に陥ったこともある朝倉氏であるが、一族あげて団結し反撃に転じ、ついに甲斐氏、二宮氏を加賀に没落させた。

 しかし、守護斯波氏−守護代朝倉氏の構図であるかぎり、斯波氏の圧力から逃れることは困難であることを悟ったのか、孝景の跡を継いだ戦国二代氏景は、したたかだった。
 常識でいえば幕府が認めている斯波家家督(武衛)は斯波義敏−義良(義寛)であり、朝倉氏が甲斐氏との越前支配をかけて戦った時、最初は当然のことながら、義良を屋形として推戴したこともあり、これを主人としなければならない。だが、朝倉氏の義敏嫌いは長禄合戦以来徹底しており、その子の義良を推戴した場合、義敏の影響が及ぶことが懸念されたため、逆に、居場所のなくなった斯波義廉親子を越前に引き取ったと考えられる。
 実は斯波義廉の子(後の義俊)は朝倉氏女が母であり、氏景の甥にあたる。かって義廉が斯波家家督を継承した際には、朝倉氏も義廉を 支持したにも係わらず、応仁の乱の途中で裏切ったことに対する罪滅ぼしの意識もあったのかも知れない。

 文明十三年十月朝倉氏は、幕府、斯波武衛家とも非公認のまま、新守護に斯波武衛家に代わり斯波(鞍谷)義俊(斯波義廉息)を推戴する。その後、美濃守護代斉藤妙純の仲介で、「主人は斯波氏、越前守護代は朝倉氏、尾張守護代は織田氏、遠江守護代は甲斐氏」で和議を結んだという。
 新守護鞍谷氏は最初一乗谷に居館を置いたものの、まもなく、朝倉街道も通り府中にも近い今立郡池泉(鞍谷)に居館を構えることとなる。今に残る「鞍谷御所」がその居館跡である。
 もちろんこのような体制は斯波武衛家や幕府の認めるところとはならず、斯波氏から執拗に「朝倉の越前押領」の訴えや、一時は将軍の「朝倉退治」の御教書まで出されるに至る。しかし、この頃になると、すでに甲斐氏が軍事力を喪失しており、斯波氏に従って軍役を果たしている尾張守護代織田氏が、越前への進攻に及び腰のもとでは、斯波武衛家も軍勢を動かすことはできなかった。

 西軍大名が次々と幕府に帰順するなか、その機会を逸した管領斯波義廉は、幕府から追討令がでていることもあり、義俊のもとで、隠棲生活を送ったと考えられる。
 西幕府の責任者として、将軍義政の執政に異を唱え、それに反する行動をとった彼が許される可能性はもともとなかったのである。
 一説には渋川姓に復し赦免を受けたとの説もあるが、何れにしてもその後の消息は不明である。

 没年ははっきりしないが、遅くとも長享年間には没したものと推定され、鞍谷(斯波)氏の菩提寺霊泉寺は、この時創建されたと考えられる。


鞍谷御所跡はこちらにあります

 

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