領家波氏 (しばし)

■■■南北朝から室町期「第一の家格」を誇った斯波氏■■■

 

最後の武衛・斯波義銀

 足利氏一族の名族で、室町幕府の管領家(三管領筆頭)を努めた斯波氏は、代々の当主が尾張守に、また兵衛督、兵衛佐に任ぜられたので、兵衛の唐名をとって武衛(ぶえい)と呼ばれ ていた。

 その斯波氏(武衛)の最後の当主となるのが、斯波義銀(よしかね)である。

 斯波氏は 、応仁の乱の契機ともなる、義敏、義廉の家督争いで権威は失墜、「主人は斯波氏、越前守護代は朝倉氏、尾張守護代は織田氏、遠江守護代は甲斐氏」で何とか収まるも、事実上斯波氏領国の3分割であった。

 事実上、越前を家臣の朝倉氏に、遠江はその後今川氏に奪われ、義銀の祖父義達の代には、かろうじて尾張守護職のみ保持していたに過ぎない。

 最後の当主となる 斯波義銀は義統の子で天文九年尾張清洲城内の守護館で生まれたと言われる。幼名を岩竜丸という。

 父、義統までの時代、尾張は守護代織田氏が上下四郡ずつ分割し、二つの織田家での拮抗のうえで、一応の安定を保っていたと考えられる。

 しかし、義統は次第に清洲城の守護代の織田彦五郎信友と疎遠となった。このため天文二十三年七月十二日、義統の子岩竜丸(義銀)が主だった家臣を引き連れて川遊びに出かけた留守を狙って、守護代の織田彦五郎信友と、その家臣で小守護代の職にあった坂井大善らが急に城内の守護館を襲い、義統は自害に追い込まれてしまう。42才であったといわれている。

 このため若武衛こと岩竜丸(義銀)は清洲に戻ることができず、そのまま織田信長を頼って那古野城に走り込み、その保護を受けた。信長はこの若武衛(義銀)を擁立・推戴して、弘治元年四月、 清洲城を攻略、清洲に居城を移して、義銀を斯波家当主とした。その後、信長は永禄二年春、上四郡守護代家の織田伊勢守を攻撃、翌三年には三河から尾張への侵略をねらう駿河の今川義元を桶狭間で討ち取り、 ほぼ尾張の支配権を掌握した。

 また、信長は、義銀が三河の吉良氏と参会する際には随伴し、その後、尾張国主の義銀に清洲城の本丸を引き渡したという。
 「信長公記」には「信長公は武衛様(義銀のこと)を尾張の国主として崇敬され、清洲の城を進上し、自らは北櫓に移った」と記されている。

 このようななかで義銀は、吉良氏、石橋氏とともに今川氏に内通したとされ、信長によって、尾張を追放される。事実なのか、信長によって仕組まれたものなのかは不明であるが、清洲城を譲ったのも将来の追放に向けて、非難をかわすためのポーズであった可能性が高い。ここに足利一門最高の家格を誇った斯波氏は事実上滅亡する。

 もっとも、信長からすれば「父祖以来の主人武衛様(斯波氏)」を家臣にするわけにもいかず、追放以外選択肢は無かったのかも知れない。
 事実、もう一つの管領家、京兆(細川管領家のことをいう)の最後となる細川昭元の場合は、信長にとって主筋になるわけでもないので、元亀三年三月家臣団に組み入れている。

 それからの義銀の足跡ははっきりしない。京都、大阪を寄宿していたらしいが、秀吉時代の天正一七年三月、聚楽第落書き事件で63人が磔となるが、この事件の黒幕として、最後の武衛・斯波義銀と最後の京兆・細川昭元が捕縛されるという珍事件が起きている。おそらく秀吉の権威づけのために名族の子孫を捕縛したかったのであろう。もちろん権威づけのためであるからすぐに二人とも許されるものの、細川昭元はまもなく病死し、一人残った名族・武衛義銀は秀吉のお伽衆のような役割で僅かに記録にでてくるもの、その後の消息は不明である。

 江戸時代、徳川将軍家のもとで、吉良氏をはじめ足利の支族は高家として家名存続が許されるが、当然のことながら、足利将軍家と「将軍と同格」といわれた斯波家が残ることは許されなかった。

 注:細川昭元は管領細川晴元の子で管領になることはなかったが、三好長慶に推戴(人質)され、長慶の馳走で元服した。元亀二年十二月には将軍義昭の下に出向き管領細川家の当主として右京太夫に叙任している。

 

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