領家波氏 (しばし)

■■■南北朝から室町期「第一の家格」を誇った斯波氏■■■

 

斯波氏の家格
南北朝から室町期斯波氏は何故「第一の家格」を誇ったのか

 文治5年7月17日(1189年)、源頼朝は奥州平泉制圧に向けて軍を動かし、19日みずからも出陣します。すでに頼朝が恐れた弟の義経は、藤原秀衡亡き後その跡をついだ4代目泰衡によって攻められ 、衣川の館で滅亡し、平泉藤原氏は恭順の意を表明していましたが、 頼朝は平泉攻略にこれほどの軍勢がいるのか思えるほど、一大兵力を動員しました。

 一部の留守部隊を除いて鎌倉全軍を、中央を進む「大手軍」、太平洋岸を進む「東海道軍」、日本海側から攻め込む「北陸道軍」の3隊にわけ、進撃を開始します。

 ここで見逃すことのできない重要な幾つかの事があります。
 まずこの戦いははじめから勝利者が決まっていたことです。勝つか負けるかわからない戦とは違って、はじめから頼朝の勝利は誰にも分かっていたということです。単に、義経がもういなくて、 奥州軍を指揮する人間がいないというだけでなく、奥州は武士と農民が分化しておらず、7月に軍を動かすことはできない状況下で奥州に攻めこんだのです。

 それゆえ頼朝は2つのことを行っています。

 ひとつは朝廷の許可、宣旨なく奥州討伐に動いたことです。
もちろん朝廷へは宣旨を申請はしましたが、後白河法皇が許可することはないことを見越しての出陣でした。これまでは必ず宣旨を得て、朝敵を討つという大儀名分で戦をしていたの ですが、頼朝はこれを必要としないことを朝廷側に突きつけた わけです。(もっとも頼朝が出陣したことを知って、あわてて朝廷は許可したわけですが)

 もうひとつは、朝廷の許可がないのに全国66ヶ国全てに参陣を命じたことです。
 関東周辺だけでなく、西の果て対馬から、南の果て南九州まで全国津々浦々に動員令を出し、参陣を強要し、鎌倉政権を「独立した軍事政権」として受け入れるのかの踏絵をせまったのです。

 さて、奥州制圧軍の動きですが、8月8日、現在の宮城県と福島県の県境付近の阿津賀志山で奥羽軍の防衛部隊と戦を交えます。奥羽軍とて、何もしていなかったわけでは ありません。この阿津賀志山の中腹から阿武隈川に至る4キロにわたって長大な防塁を築きました。深さ3m幅13mの二重の堀です。この空前の土木工事に費やした労働力は一説には40万人ともいわれてい ます。いまでも一部は保存整備されてその跡を見ることができるそうです。
 しかし、これは奥州藤原氏の最後の光芒でした。
 鎌倉軍は僅か3日間で、10日にはこれを破り、22日には平泉を占領します。すでに藤原4代目の泰衡は自ら館に火を放ち逃亡していますが、9月2日頼朝は兵をまとめるのではなくて、泰衡追跡を名目にしてさらに北上をつづけ、4日に斯波郡陣ヶ岡に全軍を集結させた のです。
 あたかもそれが目的であったかのようにです。

 斯波郡陣ヶ岡、かつて征夷大将軍坂上田村麻呂が東北制圧の拠点とした場所であり、斯波城を築く場合もここを駐屯拠点として活用したとされてい ます。また源頼義、義家親子が「前九年の役」で3万人の軍勢をここに常駐させ、前進基地とした場所でもあり、いわば武門の棟梁ゆかり、源氏の聖地ともいうべき地であったわけです。
 奥州討伐の全国から28万人もの軍勢を集めたのは、実はここに集結させ、閲兵し、一大デモンストレーションを行なうことこそ、頼朝の本来の目的のひとつだったのではなかったかと考え られます。
 それは頼朝にとって、自分こそが源氏の正統、武門の棟梁であることを認識させる政治的一大イベントだったのです。

 論功行賞ももちろんここ、斯波郡陣ヶ岡で行われたわけです。

 時が流れ、源氏の正統が絶えた時、奥州斯波郡は足利氏の支配するところとなっていました。
 人によっては斯波郡が足利氏に与えられたのは、奥州討伐の論功であったとする人もいますが、それでは何のために頼朝が斯波郡に軍勢を集結させて、デモンストレーションをおこなったのか意味がわからなくなります。
 なぜなら、八幡太郎源義家がなくなった時、源家の惣領を誰が継ぐかについては、長男義宗が死亡しており、次男の義親は西国で追討を受ける身になっており、三男の義国が惣領を継ぐ立場にあったが、常陸合戦で長期に京を離れていたため、結果的に四男の義忠が相続することになった わけですが、3年後に暗殺され、ここから為義(頼朝祖父)に回ってくることになるわけです。
 この惣領になり損ねた義国こそ足利の祖であり、この時、惣領をついでおれば、足利が源家の長となり、頼朝に源氏の惣領が回ってくることは無かったはずです。
 従ってどちらが源氏の正統かといえば、当事者にとっては、心境穏やかならぬ問題を抱えていたわけで、猜疑心の人一倍強い頼朝が、自らの権威確立のために利用した陣ヶ 岡を、この時足利氏に丸ごと与えることは無いと考えるのが通常ではないでしょうか。(もちろん、 奥州の一部は与えたと考えられます)

 広大な斯波郡が足利氏の支配地になったのは、おそらく源氏の正統が絶え、北条氏が執権政治を行なうにあたり、妥協の産物として、源氏の大族足利氏の不満を抑えるため 、源氏ゆかりの地が足利氏のもとに移ったと私は解釈しています。

 足利氏は北条得宗家から嫁をもらい、北条氏とも関係が深かったわけですが、また、源氏の後継として両者の反目も大きかったと思われます。それが表面化したのが足利泰氏の時で す。反北条得宗に立つ名越流北条氏の娘との間に家氏をもうけるなど反北条色を強めるわけです。

 名越流北条氏、これもまた北条嫡流の立場にたつ微妙な一族です。

 二代執権北条義時の長男は泰時、次男が朝時(名越流祖)です。朝時の母は比企氏一族の女で、その結婚は頼朝の後押しがあったと言われています。この女性は三男重時(極楽寺流祖)を生んだ後、夭折したと 考えれています。これに対して泰時の母の出自ははっきりしません。家系などは全くわかっていません。このため後に、頼朝ご落胤説まで生まれました。
 中世では母の出自は大きなウェイトを占めていましたから、義時が亡くなって泰時が跡を継いだ時、朝時には「自分こそ北条嫡流」との思いで、大きな不満が残ったと考えられます。

 しかも、義時は鎌倉北条の初代時政の邸宅を、この朝時に相続させていたのです。これが名越邸です。

 朝時からすれば、母の出自や北条本宅ともいうべき名越邸を相続していることを考えれば、自分が北条の正統であるとの意識はかなり強いものであったのではないでしょうか。

 源氏の大族足利氏と、北条嫡流意識を持つ名越流北条氏が結びついたのが、足利泰氏の時で、生まれたのが斯波氏の祖と言われる家氏です。

 もちろん、北条得宗家の巻き返しも強く、これ以上緊張することをさけるため足利氏も得宗家から妻を娶り、三男頼氏を設け、家督はこの弟頼氏につがせるものの、源氏の聖地「奥州斯波郡」は名越の娘との間にできた兄の家氏に分知したので す。
 これは、足利泰氏の北条得宗に対する、最後の抵抗だったのではないでしょうか。

 もっとも、この時代、足利家氏が直接斯波郡に下向したことはなく、実質は家臣を代官として派遣して、支配を委ねるかたちをとったと思われます。
 家氏は、父の泰氏の出家隠居後、足利氏の家督をついだ三男の頼氏がまだ12歳にすぎないため、足利本家の後見役としての役割を当然のことながら担わざるをえなかったわけです。
 さらにこの頼氏は23歳の若さで病死し、足利氏の家督は、その子の幼い家時が継承することとなるわけですが、結局家氏が再びその後見役を担うことになるわけです。

 このように、斯波氏の祖となる足利家氏は関東御家人として幕府に出仕するともに、長らく本家の後見役、足利一門の代表を努め、源氏ゆかりの斯波郡を領有したこともあり、 足利尾張家として一族のなかでも特別な家格を得ることになるわけです。
 足利尾張家の名は、家氏が文永二年尾張守に任じられたことに由来します。
 

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