領家波氏 (しばし)

■■■南北朝から室町期「第一の家格」を誇った斯波氏■■■

斯波氏年表3

寛正4 11.1 周防大内氏に逃れた前斯波家督の斯波義敏が赦免となる
  11.20 斯波持種出家す(義敏実父)、この日孫松王丸(義敏の子)ともに将軍義政に拝謁し義敏赦免を謝す(しかし、甲斐氏、朝倉氏の反対で帰洛は実現せず)
寛正5 10.2 斯波持種と二宮氏が大野郡の支配をめぐり対立
寛正6 7.7 京の斯波義廉邸(武衛陣)において、越前猿楽右馬太郎の能が上演される
  9.8 幕府、大野郡を押領する二宮氏に斯波持種への還付を命ず
  10.2 斯波義敏に将軍の赦免(上洛許可)が出る
  11.2 周防にいる斯波義敏の赦免につき、将軍義政が甲斐・朝倉の意向を徴するが、両人ともに反対意向表明
  12.3 斯波義敏の赦免が実現し、義敏と松王丸親子が室町第に参賀し将軍義政に拝謁、義敏正式に復権する
文正元 7.24 将軍足利義政が政所執事伊勢貞親の意見を容れ、斯波義廉を退け、再び義敏を斯波氏の惣領に立て、斯波氏の内紛が強まる。
  8.25 斯波(武衛)家督が義廉から義敏に代えられたのに伴い、斯波義敏に対し、越前・尾張・遠江の将軍家御判が与えられる。義廉は斯波家督象徴ともいうべき斯波邸(武衛陣)の明渡しを拒否(山名宗全も激怒、義廉は宗全の娘婿、義廉は武衛陣明渡しに反発し館に櫓等を設けさらに越前、尾張、遠江より軍を上洛させる)
   9. 6 文正の政変、山名勢(義廉支持派)に追われ政所執事伊勢貞親京を逃亡、斯波義敏は近江に逃亡、斯波義廉復権する
  9.14 斯波義廉が斯波家督に復帰する、この日守護代の甲斐氏、朝倉氏、織田氏を従え幕府に出仕
応仁元 1. 8 山名勢の後押しで細川派の畠山政長に代り、斯波義廉幕府管領職となる、山名派による対細川戦略包囲の一環、管領職のほか畠山の家督も失った畠山 政長は、17日自邸を焼き上御霊社に立てこもる
  1.17 上御霊社の戦い起こる(後の応仁の乱の前哨戦)、朝倉孝景、斯波義廉軍の一員として畠山義就軍(西軍)に加わり参戦、前管領畠山政長を攻撃
  1.21 朝倉孝景、斯波義廉軍(西軍)の一員として、細川派(東軍)の斯波義敏方(持種屋敷)を攻撃、斯波持種(義敏の実父)京を没落
  5.2 山名宗全、畠山義就等西軍幹部が京の斯波義廉邸(武衛陣)で軍議を開き、兵を挙げ、細川勝元討伐を計画
  5.24 東軍に属す武田氏は一色義直館を攻撃、追い落とし、実相院を押さえる
  5.26 応仁の乱の戦端が開かれる。斯波氏は義敏が東軍(細川勝元派)、 幕府管領義廉は西軍(山名宗全派)に就く。若狭守護武田信賢は東軍に、朝倉孝景は義廉被官人として西軍の一員として参戦、斯波義廉は細川 勝久に攻撃をかけ細川一時苦戦となる
  5.- 乱本格化に伴い越前・遠江・尾張諸国に東軍の斯波義敏勢が侵入、近江に逃れていた斯波義敏(東軍) は越前に入り兵を動かす、朝倉氏等西軍派を追放に乗り出す
  6.14 西軍で管領の斯波義廉邸(武衛陣)を東軍が攻撃、攻撃の若狭武田氏と防衛の朝倉孝景が二条で激戦、これを破る
  7.11 西軍派の管領斯波義廉邸(武衛陣)を東軍が再び攻撃、若狭武田信賢攻撃に加わる、朝倉氏必死で防衛に努める、東軍斯波邸を包囲
  7.23 管領斯波義廉邸(武衛陣)を包囲中の東軍が西軍大内義弘の難波到着を聞き一旦撤退(7月20日兵庫港に上陸)
  7.25 西軍派の管領斯波義廉の館(武衛陣)を再び東軍が攻撃、若狭武田氏と朝倉孝景が対戦
応仁2 5.- 斯波義敏方の軍勢、朝倉氏など西軍斯波義廉与党を国中から追い出す.
  7.1 西軍派の斯波義廉、幕府管領職解任(越前・尾張・遠江守護職も解任され義敏に還付)、東軍の細川勝元管領となる、細川派の巻き返し(但し義廉は西軍ではあくまでも斯波家家督で管領である)
  9. 3 朝倉孝景に対し、幕府の政所執事伊勢貞親が東軍への勧誘の書状を送るという
  9.22 将軍足利義政と足利義視が事実上決裂(義視はこのあと西幕府将軍となる)
  閏10.14 西軍の斯波義廉が募兵と義敏(東軍)に押されている越前支配再編のため朝倉孝景を越前に下向させる、子の氏景は京に残る、この頃から朝倉氏への東軍勧誘工作活発化
  11.2 かつての東軍大将足利義視が斯波義廉邸(武衛陣)に入り、西軍に迎えられる、将軍足利義視、管領斯波義廉で西幕府(西軍)体制の正当化をはかる
  12.- 朝倉孝景が斯波義廉方(西軍)から斯波義敏方(東軍)に降ったと噂される.
文明元 1.29 将軍義政、朝倉孝景に従い西軍の斯波義廉を討つことを、越前国人深町久清に命じる
文明3 5.21 将軍足利義政、朝倉孝景を甲斐氏に代えて越前守護代に補任、《朝倉氏側は守護職と主張、京にはこれに関連する資料はない》
  6.9 朝倉氏景が東軍となり、将軍義政に見参し、剣を与えられて越前に下国(6月29日下着)
  6.10 朝倉孝景、東軍方として軍事行動をおこし、今立郡河俣で戦う
  7.21 朝倉孝景、立烏帽子・狩衣の装束をつけたため国人たちの反感をかい、西軍の甲斐方に惨敗
  8.24 朝倉氏、守護義敏の子松王丸(斯波義良)を推戴し、今立郡鯖江・新庄でと甲斐氏が合戦、 守護斯波氏を担いだことで西軍甲斐氏にはじめて勝利す.
  8.26 南朝末裔(小倉宮王子)が西軍の要請で上洛し北野松梅院に入る(西軍は天皇南朝、将軍足利義視、管領斯波義廉体制となる
  閏8. 4 斯波道顕(持種)、朝倉孝景宛ての感状を発給
  9.11 朝倉氏、小守護代家で斯波氏被官池田氏と清水谷で合戦、動きを牽制
文明4 8.6 朝倉氏が府中を制圧する 、甲斐氏杣山、近江に逃れる
  8.8 坂井郡長崎の甲斐勢を、朝倉氏が攻撃し敗走させる、甲斐派加賀に逃れる
  8.28 朝倉孝景、将軍に越前の寺社本所領の半済を願い許される
  12.2 元越前守護松王丸(義敏実子)元服し斯波義良(よしすけ)を名乗る
文明5 8.8 甲斐・朝倉両勢、坂井郡光塚・蓮浦で合戦、朝倉氏多くの犠牲を出す。.このため吉崎の蓮如、藤島に避難
文明6 1.18 甲斐氏と朝倉勢が南条郡杣山で合戦、
  5.5 近江から進攻した甲斐勢と朝倉氏が敦賀天神浜で合戦
  5.16 加賀から大規模進攻した甲斐氏と朝倉氏が吉田郡殿下、足羽郡桶田口・波着山・岡保などで合戦(閏5月15日まで)、大畔縄手の決戦.朝倉勝利におわる
  6.1 美濃国守護代斎藤妙椿が越前に至り、朝倉氏と甲斐氏の和解を図る、甲斐敏光上洛
  12.- 甲斐氏、西軍に留まることの不利を悟り、幕府(東軍)に帰順
  -.- この年ごろ遠江守護も兼ねる斯波氏、遠江守護代甲斐氏が越前にかかりっきりをみて駿河守護今川義忠が遠江に侵攻を開始(これ以降遠江では今川氏と覇権をめぐり抗争)
文明7 2.11 幕府(東軍)に帰順した甲斐敏光、守護斯波義敏の子義良(松王丸)とともに幕府出士、幕府、甲斐氏に遠江守護代を認めるも越前守護代は認めず、朝倉支配を追認 、甲斐敏光、遠江守護代として遠江へ下向
  2.14 朝倉孝景軍、大野郡犬山城の二宮勢を夜襲
  2.19 甲斐敏光、遠江に下向
  4.10 大野郡在住の守護斯波義敏、反朝倉のため二宮氏の立てこもる土橋城へ入城
  7.16 斯波氏の重鎮斯波持種(守護義敏の実父)没(63才、墓大野洞雲寺)、これにより朝倉氏斯波氏の束縛からも逃れる
  7.23 朝倉氏、土橋城に守護義敏が在城のため、二宮氏を城外におびき出し合戦、二宮将監敗死(井野部の合戦)
  11. 3 朝倉氏、二宮氏や守護斯波義敏たてこもる大野土橋城へ総攻撃をはじめる
  11.18 朝倉氏や甲斐氏等有力被官の幕府帰順で孤立した西軍管領斯波義廉が京を離れ尾張へ下向、 尾張守護代織田敏広を頼るも以後消息不明となる
  12. 3 守護斯波義敏大野土橋城を退去、朝倉氏唯一残っていた反朝倉の拠点土橋城を落とし、越前の主要拠点を甲斐氏より奪う、守護義敏は朝倉氏に守られ上洛
  - この年、遠江で斯波氏と今川氏抗争し横地、勝間田氏の奮闘で今川氏を押し返す
文明8 4. 6 斯波氏守護の分国遠江に侵攻した駿河守護今川義忠が塩買坂で斯波派の横地、勝間田残党軍に攻められ敗死
  9.14 斯波義良、越前を実力支配する朝倉孝景討伐を計画
  11.1 東軍(斯波義敏派)の織田敏定が尾張に下向し、西軍管領斯波義廉・尾張守護代織田敏広の拠点尾張守護所(下津)を攻撃し、一旦は奪取するも、後、反撃され京に戻る
文明10 9.9 幕府尾張守護代を織田敏広に代えて東軍派の織田敏定に命じ、合わせて尾張の凶徒退治を命ず
  10.1 東軍(斯波義敏派)の尾張守護代となったの織田敏定が再び尾張に下向し、西軍管領斯波義廉・尾張守護代織田敏広の拠点清須城を攻撃(10.11)、奪取、入国を果たす
  12. 4 斯波義廉派の西軍尾張守護代織田敏広が西軍美濃守護代斉藤妙椿の支援をえて、斯波義敏派で清須城を奪取し篭る東軍守護代織田敏定を攻撃、敏定これを避ける、14日再攻撃
文明11 1.19 斯波義廉派の尾張守護代織田敏広と斯波義敏派で清須城に篭る守護代織田敏定が和睦し、敏広は岩倉城を居城とする
  閏9. 4 斯波義良(義敏嫡子)、義敏弟義孝(竹王丸)朝倉退治のため、前越前守護代甲斐氏ならびに二宮氏を引き連れ越前奪還に向け京を進発、義敏も一時出陣
  10.- 朝倉孝景、斯波義良・甲斐勢らとの合戦のため、京都から越前への通路を閉鎖
  11. 1 守護斯波氏が豊原寺に軍を進める、さらに優勢のうちに長崎に陣を敷く
  11. 4 守護斯波氏に呼応して二宮氏が大野郡で反朝倉戦闘を行う
  11.2 朝倉軍が長崎の斯波軍に夜襲をかける
文明12 1.1 守護斯波氏、甲斐氏が越前金津で朝倉氏景軍に夜襲をかけこれを破る
  4.- 朝倉氏景と甲斐勢の戦闘で金津町屋と坂井郡熊坂が焼ける
  7. 6 守護斯波氏、前守護代甲斐氏、本郷(坂井郡)で朝倉孝景と戦う(本郷合戦)
  7.11 守護斯波氏、甲斐氏、越前長崎で朝倉孝景と戦う、金津・兵庫・新庄に火を放つ、斯波氏、甲斐氏、坂井郡をほぼ制圧、九頭竜川以北の朝倉方の城は数ヶ所のみとなる
  7.18 丹生郡清水山で反朝倉軍(斯波軍)と朝倉軍の戦闘(清水山合戦)、甲斐派の清水山城主太田美作守自刃し落城
  8.28 甲斐氏、坂井郡河口荘民を兵士に徴発し、朝倉孝景と吉田郡芝原で戦う
文明13 3.- 尾張で両織田家が再び戦闘、守護敏定方が優勢、この後斯波義廉を支持する敏弘没
  7.26 反朝倉(守護斯波氏・甲斐軍)、朝倉の一進一退の攻防の中、朝倉孝景( 戦国初代)没す(54歳)、嫡男氏景跡を嗣ぐ(孝景の死は京都では好意的に受け止めたれた)
  7.- 尾張の織田敏広の継嗣千代夜叉丸(寛広)が、守護斯波義良に帰順、斯波義廉孤立
  8.17 朝倉勢、坂井郡粟田島の甲斐勢を破る
  9.15 朝倉氏景、一族の協力の下、反朝倉勢を越前から追放、一国掌握、守護斯波氏、甲斐氏加賀に退く
  10. 6 朝倉氏景、美濃守護代斎藤氏の斡旋で、新守護として斯波義廉子息(後の鞍谷義俊)を推戴(斯波武衛家、幕府非公認)、このころ元管領斯波義廉も 、最後の支援者織田敏広の死没で孤立し、尾張を出て越前に亡命
  11.2 朝倉氏景、将軍に代始の礼
文明15 3.19 守護斯波義良、越前支配を断念し、尾張へ下向
  4.3 朝倉氏、元越前守護代甲斐氏と和与が成立、主人は斯波氏、分国は越前守護代に朝倉氏、遠江守護代に甲斐氏、尾張守護代に織田氏となり、事実上、斯波氏領国の3分割される
文明17 4.7 越前・尾張・遠江守護の武衛斯波義良が義寛と改名
  7.8 京在住の斯波義敏がこの日出家する(即源院)
文明18 7.4 朝倉氏景が死去する(38歳)
     
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その4へ続く

 

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