領家波氏 (しばし)

■■■南北朝から室町期「第一の家格」を誇った斯波氏■■■

斯波氏年表4

長享1 9.12 将軍足利義尚、近江の六角氏討伐のため近江坂本に着陣
  9.晦 将軍足利義尚に応じて武衛斯波義寛(義良)、守護代の両織田氏を従え近江坂本着陣(8,000人率いる)
  10.19 将軍足利義尚に応じて朝倉景冬(敦賀軍司)の越前兵、近江坂本着陣。これを機会に斯波氏「長亨の訴訟」(朝倉氏の越前押領への訴訟)本格化
  10.22 朝倉貞景の越前押領(支配)について、武衛斯波義寛が近江の将軍義尚に訴え、貞景の進退が問題となる.
  11. 2 斯波氏、朝倉氏の争論に対して、幕府の妥協案(貞景より義寛へ名代を出す)が提案されるが、斯波氏拒否
  11.11 武衛斯波義寛、守護代織田氏を通じて朝倉氏の越前押領について再び意見書提出
  12.24 朝倉氏が斯波氏の見解に対して反論を提出
  12.29 朝倉貞景の地位につき、斯波氏との関係は決着していないが、奉公人たることが定まり、国内の寺社本所領を返進することになったとされる.
長亨2 2.23 武衛斯波義寛、前将軍義政を東山に訪ねる
  2.- 朝倉景冬、斯波氏との争論への御礼として、3000人の人数で仙洞旧跡の松を東山山荘に運ぶ.
  3.4 織田氏ら尾張へ帰国
  8.- 尾張の織田氏再び両派で争いとなる
  9.26 武衛斯波義寛、尾張の混乱に対応するため近江から尾張へ下向
  11.- 尾張の混乱、守護代敏定(清洲)派優位で終結
延徳元 3.26 将軍足利義煕(義尚)が近江鉤の陣中に没する
延徳2 7.23 越前下向の歌人正広が、朝倉氏が越前守護として推戴する(幕府非公認)斯波義廉息(鞍谷義俊)と対面して歌会をもよおす
延徳2 8 天台宗の真盛が朝倉氏の要請で一乗谷下向(3回目)、17日大野土橋城で斯波氏・甲斐氏・二宮氏将兵の供養に臨む、青蓮寺蓮光寺建立(二宮氏館跡)
延徳3 8.15 将軍の求めに応じて武衛斯波義寛尾張から上洛準備
  8.22 将軍足利義材六角討伐で近江着陣
  8.27 武衛斯波義寛、守護代織田氏を従え近江着陣
  9.- 斯波氏再び「延徳の訴訟」(朝倉氏の越前押領への訴訟)提訴
  10.12 将軍義材、朝倉貞景の退治を命じる御内書を武衛斯波義寛に発する、朝倉氏一時緊迫する(織田氏の反対で斯波氏 朝倉討伐実行に移せず)
  10.18 管領細川政元の家臣上原氏、朝倉貞景はさしあたり武衛斯波義寛に服すべきことなどの五ヶ条の裁定案を貞景に示す
  11.18 尾張守護代織田敏定、近江での戦闘の先陣を担う
明応元 2.21 京で越前支配について朝倉が退き武衛斯波義寛が入国との噂がたつ
  2.21 朝倉貞景進退問題について、浦上・織田両氏が申し合わせて朝倉貞景を退け、武衛(斯波氏)を守護として越前に入国させるとの風聞が流れる
  3. 8 朝倉氏、斯波氏に対抗する訴訟準備に入る
  3.29 近江愛智河原の戦いで再び尾張守護代織田敏定が先陣を担い武功をあげる
  5. 4 将軍足利義材が武衛斯波義寛を総大将にして甲賀に逃げた六角氏を攻める
明応2 2.25 将軍足利義材、畠山基家追討のため河内へ出陣、管領畠山政長、武衛斯波義寛や武田元信等守護大名従軍
  4.22 細川政元の将軍義材に反旗(明応の政変
  4.25 細川政元の政変のため武衛斯波義寛等諸将が軍を堺へ引く(将軍義材、畠山政長孤立)
明応3 8.- 没落した前将軍義材を支援する斯波氏を牽制のため、北条早雲が、今川氏や細川政元と組み斯波氏分国遠江へ侵攻
  10.21 甲斐勢、大野郡や豊原寺へ侵攻し、朝倉勢と戦い加賀に退却.
  10.28 この年、今川氏の遠江の佐野・山名・周知の三郡への侵攻が本格化しこれに対応するため武衛斯波義寛が尾張に一時下向
明応4 7. 美濃・船田の乱の最中に織田敏定が陣中にて病没
(尾張も遠江も混乱状態になるも
前将軍を支持する武衛斯波義寛は細川政元との 政争で離京できない状態にあったと考えられる)
明応8 9. 3 足利義材と連係する畠山尚順が大和から京都攻撃体勢にはいったため将軍足利義澄が武衛斯波義寛の屋敷(武衛陣)へ避難、斯波氏義澄派に転向、( 後に息女を将軍義澄後室{後の義維、義晴母}に送りこむ)、「応仁以来の大変事」といわれる細川政元と畠山との戦いが大和を中心に戦われる
文亀元 - 今川氏の遠江侵攻激化、8月信濃から小笠原貞朝斯波氏支援に二股城に入る(義寛弟斯波義雄も合流)
永正2 2 - 足利義澄が夫人と不和で離縁、後室に武衛斯波義寛女{後の義維、義晴母}
永正3 7.- 越前牢人(甲斐氏残存勢力)と越前一揆に加賀・越中・能登衆が加わり大軍となり、17日より26日まで坂井郡豊原寺付近で朝倉軍と戦う.
  8. 6 越前・加賀一揆軍と朝倉軍、九頭竜川をはさんで決戦.一揆軍が敗れる.
永正5 2.2 幕府、斯波義敏、朝倉貞景、その他諸将に命じ前将軍の足利義材の入京を防がせる(義敏動かず) 、隠居の斯波義敏に命じていることから、このころには武衛斯波義寛没した可能性あり(武衛家督は義寛嫡男義達が継ぐ、これ以後武衛の京での政治力は消失する)
  7.1 足利義材京に入り復権、義材派から義澄派に転向した斯波氏の立場微妙となる(この時今川氏は義材支持)
  7.15 将軍交代で、遠江守護職が斯波氏から今川氏親に代えられ、斯波氏遠江を失う(しかし、この後も斯波氏は遠江国人と共同して抵抗)
  11.16 応仁の乱の発端を担った元越前・尾張・遠江守護斯波義敏没(74才)
永正7 11.26 今川氏、斯波氏の拠点引間城(浜松市)を奪い入城
永正8 8.14 足利義澄没、夫人(武衛女)は播磨赤松氏を頼る
永正8 10.19 武衛尾張守護斯波義達が遠江へ出馬し今川氏と抗争(刑部の戦い)
永正9 閏4. 2 武衛尾張守護斯波義達が重臣で引間城主であった大河内貞綱とともに遠江で今川氏と戦うも今川方朝比奈泰熈に破れる
永正10 4.17 武衛尾張守護斯義達没
永正10 5.5 武衛尾張守護斯波氏後継をめぐり争いとなり守護代織田達定死亡
永正14 3.- 大河内氏(斯波氏被官)が今川氏より引間城奪還、武衛斯波義達も引間城に入る
  8.19 今川氏が引間城の大河内氏(斯波氏被官)を滅ぼし、遠江を完全支配、斯波氏遠江を完全に失う
大永元 12.25 足利義晴(母武衛斯波義寛女)将軍職に就く
天文10 7.- この月から翌年の秋にかけ斯波氏(右兵衛佐、同修理大夫義信)が加賀一向一揆とも連携し越前進攻を計画(孝景弟景高とも連携)
天文18 - 奥州斯波氏、南部氏の雫石を奪い雫石城を改修し雫石御所とする
天文23 7.12 武衛尾張守護斯波義統、守護代織田織田信友に清洲城を攻められ死亡、子の義銀(岩竜丸)は那古野の織田信長を頼り武衛家督継承、守護就任
弘治2 4.- 武衛斯波義銀が織田信長随伴で吉良義昭と三河上野原で参陣
弘治2? 7? 織田信長、尾張守護の武衛斯波義銀を追放する、斯波武衛家滅亡
永禄8 5.19 将軍足利義輝、三好義継・松永久秀らに暗殺される.
永禄11 9.26 足利義昭、織田信長の助けで上洛.
天正元 7.18 織田信長、将軍義昭を追放(後の天正四年、備後の鞆の浦に移り「鞆幕府」開設)
  8.20 越前朝倉氏、信長に攻撃され滅亡
天正10 6.10 織田信長本能寺で自刃
天正14 9.29 奥州斯波氏の雫石御所が南部氏の攻撃で陥落
天正16 1.12 足利義昭、鞆幕府を閉鎖し将軍職を返上、京に戻る
  8. 3 奥州斯波御所(高水寺の斯波詮直)南部氏の攻撃により滅亡
天正17 3. 9 関白秀吉、石田三成に命じ武衛斯波義銀、京兆細川昭元を捕縄(直ぐに釈放される)

斯波氏年表(完)

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