領家波氏 (しばし)

■■■南北朝から室町期「第一の家格」を誇った斯波氏■■■

 

応仁・京都(斯波氏追想)

 「勘当に科(とが)なく、赦免に忠なし」といわれたように、将軍義政は斯波氏や畠山氏の家督を猫の目のように代えた。室町期の守護家の家督継承は将軍の許可が必要だったのである。

 斯波氏でいえば、義敏を追放し義廉を家督にしたかとおもえば、その義廉に代えて義敏を赦免、家督を入れ替え、文正の政変がおきると、何事もなかったかのように義廉を家督、三国(越前・尾張・遠江)守護に補任す る有様であった。それでも斯波氏の場合には一応の理屈をつけようと思えばできないことがないが、畠山氏の場合はもう常軌を逸していたとしかいいようがない。

 応仁元年正月、将軍義政は突然管領畠山政長を解任、さらに畠山の家督を政長から義就に与えたのである。
 正月2日、年末に将軍の赦免を得ていた畠山義就が、室町第に出仕し、足利義政と対面すると、義政は、正月恒例の管領邸への御成りを中止、管領畠山政長は大恥を掻かされる。さらには5日、畠山義就は山名宗全邸を借用して足利義政の御成を受ける。背景には義就に加担する山名宗全の策略 、強い後押しがあった。また、管領には、山名宗全の推す斯波義廉が就任した。

 ここに至って
 足利義視(将軍義政弟)、斯波義敏、畠山政長、細川勝元(後の東幕府)
 足利義尚(日野冨子)、斯波義廉、畠山義就、山名宗全(後の西幕府)
の二大勢力の対立は一気に緊張した。(将軍義政は当初は中立)
 幕府管領斯波義廉の被官人であった甲斐氏、朝倉氏、織田氏は、当然山名派の重要な戦力であった。

 管領を罷免され畠山邸(万里小路邸)の引渡しを求められた政長はこれを拒否し、1月17日自邸を焼き払うと、そのまま上御霊社に兵を進め陣取った。この上御霊社は、 相国寺の北に位置し、花の御所(室町第)に近接し、細川勝元邸にも近く、暗に勝元の支援と決起を促したものであったといえる。
 世にいう「応仁文明の大乱」の火蓋が切って落とされたのである。

▼畠山邸跡(現丸太町馬場通り) ▼応仁の乱勃発碑(上御霊社)
▼上御霊社 ▼相国寺(東西大激戦の地となった)

 花の御所は、現同志社大学の西側(学生会館の場所一帯)に位置し、東西は烏丸通りから室町通り 、南北は今出川通りから上立売通りまでがその敷地であったが、現在は遺構 、史跡らしきものは何もなく、今出川室町に石碑が建立されているのみである。(なお近年のビル建替えなどで、花の御所の池跡や庭石と思われるものが一部発見されている)。

▼室町通り(上立売)からみた室町第跡 ▼室町第(花の御所)址碑(今出川室町)

 細川勝元の館(小川邸)は、現在の小川児童公園の北側付近で、室町第と山名邸の中間に位置し、山名邸との間には、小川と堀川が流れていた。特に小川に架かる百々橋(どどばし)は、東西両軍 のせめぎあいが展開されることになる。

▼細川勝元邸址付近 ▼東西両軍が激突した百々橋跡

▼山名宗全邸址碑

▼山名邸近くは西陣と呼称されるようになった

 上御霊社の戦いでは、細川勝元は動かず、結局畠山政長の敗北に終わったが、直後から勝元は同志の大名に京への軍勢終結を依頼、準備が整った5月26日、ついに山名派へ攻撃を開始し、ここに乱の本格的戦いが始まることになる。

 斯波邸(武衛陣と呼称された)は、室町勘解油小路にあったが、この時は管領にあった斯波義廉(西軍)が押さえていた。このため、東軍の攻撃目標とされ、 乱がはじまると 東西両軍が激突した。一時は 完全包囲されたこともあるが、甲斐氏、朝倉氏の奮闘で何とか守りきった。

▼室町通りから見た斯波邸跡(現平安女学院) ▼武衛下屋形(三条邸)付近

 長きにわたった応仁の乱で、多くの大名の館が焼失するなか、斯波邸は最後まで持ちこたえた。東軍の大将であった足利義視が出奔し、西軍に将軍として迎えられたのはこの斯波邸でのことである。ここに西幕府は将軍足利義視、管領斯波義廉として正式に発足する。この後、西幕府は古河公方とも連携し、東幕府に対抗し続け、それは勝元や宗全が死去しても、なお継続することになるのである。

 しかし、西幕府管領の義廉も文明7年11月、朝倉氏や甲斐氏等有力被官の東幕府帰順で孤立し、京を離れ、尾張守護代織田敏広(西軍)を頼り、尾張へ下向。武衛陣は東軍の斯波義敏、義寛(義良)親子 によって接収された。

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写真 2002.10-2003.06
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