領家波氏 (しばし)

■■■南北朝から室町期「第一の家格」を誇った斯波氏■■■

 

宇治・「朝日茶園」(斯波氏の茶園)

 日本の茶の歴史は、古くは伝教大師や弘法大師の時代に遡るともいわれているが、これは伝承の域をでない。本格的な茶の普及の祖は、鎌倉時代初期の栄西禅師と明恵上人といわれる。建久二年(1191)、栄西が二度目の入宋から帰国、この時、宋代抹茶法が伝えらた。そして栄西 が京に建仁寺を建立した2年後、華厳宗の明恵上人が京都栂尾に高山寺を中興し、たびたび栄西を訪れ、この交流で栄西は明恵に茶の薬効を話し、茶の種を贈ったのである。
 上人はこれを栂ノ尾に植え、茶の効能を認めて、さらに宇治に移し植え、ここから普及がはじまる。また、これを機会に宇治が茶の中心地として発展していくことにもなるのである。

▼宇治橋、現在の橋は1996(平成8)年に架け替えられたもの ▼張り出した宇治橋の「三の間」、秀吉が茶の湯に使う水を汲ませた名残を残す

 もう一つ茶の普及に貢献したのが、室町幕府と武家政治である。
 室町時代に入ると、幕府(花の御所)をはじめ、京の守護の邸宅には、会所が設置され、武家社会での格式礼法がつくられていったが、その礼法の中に茶も加わったのである。
 宇治の茶園の大規模な開拓は、将軍義満と管領斯波義将時代にはじまるが、この結果、将軍家は「森」・「川下」茶園、斯波氏は「朝日」茶園などを開設し、世に言う「宇治七茶園」が成立することとなる。
 
 その斯波氏の「朝日茶園」は宇治川右岸の朝日山山麓に作られた大規模なものであった。 室町期には「第一の家格」を誇った斯波氏 は、管領義将時代に室町通り勘解油小路に邸宅を構え(「武衛陣」と呼ばれた)、勘解由小路殿ともよばれていたが、当然そこでは「朝日茶園」で摘まれた茶が使用されたと考えられる。
 斯波氏は戦国期に入って衰退するも、「茶園」はその後も独自に経営されていたと考えられる。しかし、江戸時代に入って、慶安元年(1648) 、この地を淀城主の永井尚政が買収して興聖寺を建立したため、茶園の面積は大きく失われた。そして、僅かに残っていた茶園も、明治に入り宇治発電所建設に伴って完全に姿を消したのである。

▼興聖寺屋根と背後の朝日山 ▼興聖寺本堂は伏見城の遺構

 現在では「御園」といわれた「朝日茶園」の面影はどこにも残っていないが、それでも毎年10月第一日曜日に開催される宇治のメインイベント「宇治茶祭り」では、宇治橋「三の間」で縄につるした釣瓶で水を汲み上げ、これを竹筒に移して興聖寺に運びこまれた後、茶事が開催される。
 ここがかつて著名な「茶園」であったことの名残かもしれない。

▼興聖寺山門前の茶筅塚 ▼宇治発電所建立碑

 興聖寺本堂では、今年の新茶を入れた茶壷の口を切り、それを抹茶にし、お茶を点てる。これが「茶壷口切りの儀」であり、その後、興聖寺山門前の茶筅塚で、使い古した「茶筅の供養法要」が営まれている。
 

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写真 2003.10
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