領家波氏 (しばし)

■■■南北朝から室町期「第一の家格」を誇った斯波氏■■■

 

奥州斯波氏・斯波御所(高水寺御所)跡を訪ねて
(岩手県紫波町二日町古館)

 高水寺城は奥州斯波氏の本拠であり、室町期には斯波御所と称された。

 斯波氏の祖は足利泰氏の長男足利家氏(母は名越流北条)である。家氏は長男ではあったが、足利氏の家督は北条得宗家との緊張を緩和するため、得宗家を母とする弟頼氏(泰氏三男)が継ぐ。しかし、その後足利氏に幼少の当主が続いたため、家氏は足利一門の代表として関東御家人として活躍し、足利尾張家と言われ名族としての基礎を築き 、南北朝から室町期には「第一の家格」と称されていた。

 家氏は陸奥国斯波郡を父泰氏から分知され、これを領有したことにより、この系統は後に斯波氏を称するにいたる。泰氏はなかなかの反骨精神の持主であり、源氏ゆかりの斯波郡を敢えて家氏に継がせたと考えられる。

 家氏の曾孫が足利尊氏と同年の足利尾張守高経で、南北朝期に活躍し、やがて宗家は三管領筆頭(武衛家)として越前・尾張・遠江の守護職を継承することとなる。
 その高経の長男が家長である。若くして陸奥守、奥州総奉行として南軍と奥州や関東で対決し活躍するが、17才で鎌倉杉本城の戦いで戦死する。若くして没した家長には妻子がなく、父高経は詮経を養子として斯波郡を領有させ、やがてこの系統は高水寺城を居城とし、斯波宗家(武衛家)とは別に、 奥州の地に在って斯波郡を継承し、将軍の御一門・「斯波御所」と称され戦国末期まで栄えた。

 その奥州斯波氏(斯波御所)の居城(御所)が高水寺城である。城跡はほぼ岩手県紫波町の中央、北上川右岸標高180mの段丘に築かれており、 辺り一帯の城跡は、現在城山公園として整備されている。
 自動車道からは紫波ICで降りて、国道4号に出、そこから北上すると左側に城山公園が見える。車で10分前後である。
 その範囲は東西550m、南北700mに及んでおり、周辺にも御所関連の居館跡が見出され、予想以上の規模である。
 なお、高水寺城の名は、もともとこの段丘に高水寺なる寺院が在ったことに由来する。

▼広大な主郭跡 ▼主郭跡の御殿跡碑


「志和軍戦記」には、「志和の城と申すは、前に北上川とて大川なり。後は深堀左右の深淵にて竜王も住居する程の大堀、要害堅固の城にて飛鳥も飛越し兼ねる程の居城なり。山城にて五十五丈余の高さなり」と記されている。
 
 段丘の頂きが主郭(本丸)でここに御殿があったとされている。東西60m、南北はその倍の120mある。本丸南東に二郭(若殿屋敷)があり、これも東西50m南北100mの大きさである。北東には姫御殿と呼ばれる郭跡が、南に右京屋敷跡等が伝えられる。南部氏との融和のために娘婿に入り高田氏を名乗ったとされる吉兵衛屋敷跡は南西部にあり、出丸を構成している。また東側の北上川沿いには小規模ながら複数の郭跡が見出される。
 このほか、国道の向かいに隠居の館(西御所)として戸部御所があったとされる。

 奥州斯波氏(斯波御所)は、一時雫石盆地にも進出し雫石御所、猪去御所も構えたが、天正年間はじめ10代詮直が御所を継ぐころからかげりが見え始め、天正16年8月南部氏に攻撃され滅亡(亡命)に追い込まれた。

 南部氏は一時、郡山城と改称し居城としたこともあったが、寛文7年に廃城となった。

▼城山公園案内板 ▼戸部御所跡付近

 城跡の公園は現在1,300本の桜の名所となっている。


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