領家波氏 (しばし)

■■■南北朝から室町期「第一の家格」を誇った斯波氏■■■

 

尾張・下津守護所跡を訪ねて
(愛知県稲沢市)

   斯波氏の分国は時代とともに変遷するが、応永年間には越前、尾張、遠江の3カ国に落ち着く。守護代は斯波家の執事も兼ねる甲斐氏が務め、越前と遠江はその後も甲斐氏が守護代職を掌握していたが、尾張だけは、守護斯波氏の意向か甲斐氏自身の意向かは不明だが、 守護代職を織田氏に譲っている。

 斯波氏が尾張守護職を獲得するのは応永7年で、織田常松が守護代になるのは応永10年頃とされる。守護代織田常松は在京したため、小守護代の織田常竹が尾張に下向した。
 織田氏の出自ははっきりしないが、越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)の織田剣神社の神官の出であるとされている。

 下津に守護所が設置された時期も不明であるが、織田氏はそれまで守護斯波氏のもとで重職の経験に乏しく、守護斯波義重は、最初経験豊富な甲斐氏のもとで守護統治体制を整備し、その後織田氏に交代させたと考えられるから、個人的には、甲斐氏から織田氏に守護代が交代するまでの間には原型が出来、その後、徐々に織田氏が平城として拡張整備したと考えるのが妥当ではなかろうか。従って応永7年から10年までの間に は原型ができたと思われる。
 永享4年(1432年)9月、6代将軍義教が、鎌倉公方牽制のため富士遊覧と称し東海に下向したさいに宿泊もしている。

 下津が動乱に巻き込まれるのは応仁の乱の時である。

 守護斯波氏の、東幕府の義敏と西幕府を指揮する管領斯波義廉に分かれての家督争いは、京にとどまらず、分国の越前、尾張にも及んだ。西幕府は軍事面では優勢であったが、当初中立であった将軍義政が東幕府支持に転じると、京での戦局は降着状態になる。
 そのような中、尾張、越前では東幕府の義敏支持派による義廉派への圧力が強まり、義廉は越前へは重臣朝倉孝景を、尾張には守護代織田敏広を下向させ、体制の立直し目論んだが、朝倉孝景はすでに東幕府から勧誘をうけており、これを機会に東幕府に転じる。
 
 文明6年4月、東西両軍の代表で講和が結ばれたが、両畠山氏など講和に反対する勢力も多く、西幕府自体はその後も存続したものの、朝倉氏や甲斐氏等有力被官の幕府帰順で孤立した西幕府管領斯波義廉は、文明7年11月、京を離れ、尾張守護代織田敏広を頼り、尾張へ下向した。

 この頃、織田氏庶流の織田敏定は東幕府に通じ義敏派に転じており、文明8年11月、織田氏嫡流守護代家で 依然西幕府のもとにある敏広の守護支配の拠点下津を攻撃した。
 戦いは激しいものとなり、敏広は敗北、斯波義廉は敏広に守られ国府宮に逃れたとされる。
 尤も、義廉を擁する敏広は、その後巻き返し、再び下津を奪還し、敏定を尾張から追放、敏定は京に戻った。
 この一連の戦いで下津の守護所は焼失したとされる。

▼下津守護所土塁跡 ▼国府宮

 翌文明10年9月、幕府は尾張守護代を織田敏広に代えて東幕府派の織田敏定を補任し、合わせて尾張の凶徒(義廉、敏広)退治を命じた。敏広と敏定の戦いの第二幕のはじまりである。 すでに下津守護所は焼失しているため、この戦いは守護所の別郭として築かれた清洲城の攻防戦として展開されることになる。

▼下津小学校  守護所の置かれた下津は、現在では畑地となっておりその雰囲気はほとんど残って いない。

 遺構も乏しく、主郭跡付近に下津城の碑が建立されているだけである。
 県道155号を挟んで下津小学校(稲沢市下津ふじ塚町83) の反対側の 場所である。
 その碑より少し北の畑地に僅かに土塁跡が残っている。
 JR稲沢駅から歩くと、結構距離がある。

 義廉や敏広が一時避難した国府宮はJR線を挟んで西側にあり、古くから尾張の総鎮守神として信仰され、毎年旧暦正月13日に執り行われる儺追神事 通称はだか祭りで広く知られている。

 


地図はここです

TOPへ戻る一覧に戻る


Copyright (c) 2008 H.Okuyama. All rights reserved.
本ページへの直接リンクはご遠慮下さい。必ずTOPページか管領家斯波氏一覧へリンクして下さい。

SEO [PR] お金 ギフト  冷え対策 特産品 動画無料レンタルサーバー SEO