講演・講義レジュメ


 

明治福井のまちおこし(上)
 

 治福井のまちおこし・地域振興に活躍した経済人といえば誰を思い浮かべるであろうか。
 繊維でいえば「織工会社」を起こした酒井功、代表的な商人としては小川喜三郎、藤井五郎兵衛。しかしここではあまり知られていないが、明治福井をかたちづくるうえで大きな役割を果たした伊藤真をとりあげる。この人物は、福井藩の下級武士出身で、商工会議所の前身となる「福井商法会議所」を創設し、初代の会頭を努めた人物でもある。
 
 を明治維新に戻そう。
 慶応3年12月9日、事実上の薩長によるクーデターで「王制復古」の宣言が出されるが、部分的な藩政改革や軍政改革は実施されるものの地方の社会体制はそのまま存続していた。
 このため維新政府は新しい日本、中央集権国家の確立に向けて、明治4年7月14日、廃藩置県を断行し、県内の各藩は一旦はそのまま県に移行、その結果福井県、丸岡県、勝山県、大野県、鯖江県、小浜県など10前後の県が誕生する。しかし、その4ヶ月後の11月20日にはこれを整理統合し、本県関係では若狭3郡と越前の敦賀・今立・南条の3郡で敦賀県を、越前の残り5郡(足羽郡、吉田郡、坂井郡、大野郡、丹生郡)で福井県を置いた。しかし福井藩の影響を嫌う 維新政府は、直後に福井県の名を足羽県に改めた。福井藩の影を消したい新政府の押し付けである。
 しかし、これだけでは維新政府は満足せず、明治6年1月14日、足羽県を解体し、敦賀県に吸収するとともに、県庁を敦賀に置き、旧福井藩出身の足羽県役人は一部を除き一掃されたのである。

 庁のなくなった旧足羽県関係者や福井の反発はおおきかったが、さらに旧福井藩士が驚愕するような事態がまっていた。旧幕藩勢力を一掃するために、維新政府は、全国府県のさらなる統配合を断行して、敦賀県を解体し、嶺北を石川県に嶺南を滋賀県に分属させたのである。
 敦賀県時代に、県庁を敦賀から福井へ移転させる運動を行ってきた旧福井藩士にとって、思いもしない展開になったわけで、それは自己のアイデンティティの喪失ともいうべき事態であったといえる 。
 石川県となれば、県庁の福井移転は絶望であり、当時石川県は越中富山も包含して日本最大の県となったわけで、加賀100万石の石川に越前が飲み込まれていく可能性も少なくなかった。

 

 福井藩は維新前後から藩の立て直し「富国策」の一環として殖産興業に力をいれ、大きな成果をあげていたが、維新後も同様に人材の登用と産業振興に力をいれ 、福井の活性化をすすめていた。その中心を担っていたのが、千本久信や本多鼎介ら旧福井藩士族団のリーダー達であった。
 明治前期経済界のリーダ伊藤真、明治中期から後期にかけて名実ともに本県のリーダーであった石田磊、二人はともに下級武士の出身であったが、廃藩置県後、足羽県、敦賀県、石川県と統廃合 を繰り返す行政のなかで、官吏をつとめながら福井の殖産振興に務めていた。特に伊藤真は、藩政時代から物産総会所につとめ、廃藩後も官吏として一貫してこの任にあたり、敦賀県時代には勧業掛さらに勧業課長として 、本県の産業振興に多大な貢献をすることになる。

 ずは官吏時代の殖産興業の推進について。
 日本の織物の先進地であった京都では明治はじめにバッタン機・ジャガードを購入し明治7年3月開催の第2回京都博覧会に展示し機業家に紹介された。
 そしてこれらの機械を、明治7年6月に新たに開設された京都勧業場に設置し、織機の使用法を伝授していた。
 元福井藩士で繊維業界の功労者とされる酒井功はこれを聞き、福井の繊維産業振興のため、京都への伝修生の派遣を敦賀県に要請した。明治8年のことであった。
 この時敦賀県には、福井の将来のために地場産業振興(殖産興業)の必要性を誰よりも理解していた伊藤真が勧業課長として在籍していた。このため、酒井の要請は県当局に聞き入れられ、細井順子 と他1名の京都への伝習生派遣が実現した。
 細井順子が通った京都勧業場とは江戸時代に長州藩の京屋敷が在ったところで、現在「明治天皇行幸所勧業場址」の碑がたっている。また細井順子の碑も明治41年7月足羽山ののぼり口に建立されている 。

 て、これに合わせて伊藤真はもうひとつ 重要な役割を果たす。彼は織り技術だけでなく、染色技術の重要性を指摘し、この結果旧福井藩士である村野近良の子、村野文次郎 の京都派遣が実現する。
 村野文次郎、知る人ぞ知るで、彼は後に「羽二重」技術を福井に導入した最大の功労者、つまり羽二重織技師高力直寛を福井に招聘した功労者として、また自らも機業家として、そして後に福井商法会議所副会頭として、明治中期の福井経済をリードすることとなるが、この意味での伊藤の繊維振興に 果たした役割は計り知れないものがある。
 さらに、酒井功からバッタン機の県費購入が敦賀県に持ち込まれ、この意見を容れ、2台の織機購入が実現するが、これも伊藤真が勧業課長時代のことである。
 これらの機械は敦賀県が解体され、石川県に移ってから、伊藤の手で酒井に貸下げられ、後の毛矢町「織工会社」の誕生へとつながっていくわけである。

 藤真は一度も繊維業界に身をおくことはなかったが、繊維福井を築いた先駆者の一人であることは間違いない 。


 

 

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本稿はFBCラジオ講座「明治福井のまちおこし」(2000年4月9日放送)を要約したものです。

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