講演・講義レジュメ


明治福井のまちおこし(下)
 

 ぎに産業基盤の整備―銀行と商法会議所の創設について見てみる。
 前述のとおり、明治9年維新政府は全国府県のさらなる統廃合を断行して、敦賀県を解体し嶺北を石川県に嶺南を滋賀県に分属させた。
 この敦賀県の解体と越前7郡の石川県への統合に際しては、伊藤は石田磊とともに一旦は石川県庁に勤めるが、このままでは福井が石川に飲み込まれ衰退は免れないと考え 、官吏辞職に踏み切った。

 川県の官吏を退任した伊藤は 、早速福井の産業振興に向けて動き出す。
 先ず、産業振興に不可欠な銀行を旧福井藩の上級藩士を統合し、払込資本12万円で「第九十二国立銀行」を創立、頭取には狛元(元家老)、支配人に千本久信(元上級武士)が就任したが、上級武士が経営に携わることはなく、経営一切は実質上の頭取たる伊藤真(副支配人)に委ねられた。
 第九十二国立銀行は「本県金融界の覇王」といわれたように本県で最大、北陸でも2番目の大型銀行で、伊藤は特に織物金融に力を入れ、産業振興に務める。
 後に九十二銀行は荷為替や無担保融資などに意欲的に取り組み、本県の繊維産業の基盤確立に多大な貢献をすることになる。

 た、商法会議所も地域経済の振興に果たすうえで欠かすことができないと考え、当時、福井は石川県に属し、石川県庁や金沢経済界は1県1会議所構想に基づく商法会議所の準備をすすめていたが、明治13年2月の準備会議に越前を代表して4名で参加した伊藤真は 、「分立」を主張、これを認めさせるとともに、強力なリーダシップの下、金沢に先行して4月24日「福井商法会議所」を創設、ここを拠点にさまざまな事業に取り組むことになる。

 報革命の推進―「福井新聞」の創刊
 明治14年10月16日、本県で初の日刊新聞「福井新聞」が発刊される。それまで情報は中央の新聞に頼っており、郵送のため高価で庶民に情報が伝わるまでには、相当の日数がかさんだ。民力の振興には情報の持つ意義が極めて大きいことを 見てとった伊藤真は、情報「後進県」(当時福井は人口1万人につき11人の新聞購読者で全国最低水準)の汚名返上と産業振興、民力向上に向け旧福井士族とともに、自らは社主として「福井新聞」を創刊する。 発行部数は当初1000部前後であったが、庶民に浸透し、この結果、民衆の知識欲をたかめ、福井に「生涯学習」ブームを引き起こすこなど、福井における最初の情報革命を担った。

 流を中心としたと基盤整備、県民意識の高揚
 嶺北・嶺南の境である木の芽峠が福井県を分断し、このためいつまでたっても県民意識が醸成されないことを見て取った伊藤真ら福井士族は福井新聞で始めて「福井県民」という用語を使用し県民意識、帰属意識の高揚に 努める。
 伊藤真はまた、福井の商工業の発展には物資輸送のための物流網の確保が不可欠との認識から、木の芽峠に代わる新たな車道建設の必要性を訴える。
 明治17年7月来福した農商務省幹部に直接このことを訴えるとともに、翌8月13日臨時商法会議所大会を開催し、敦賀〜福井〜三国、福井〜大野の道路建設を強力に乗り出す。武生、敦賀の商工界の支援を取り付け、在京旧領主など各界から募金をつのり(3万5千円)、県会に働きかけ、遂に着工にこぎつけ 、明治20年嶺北、嶺南がはじめて車道で接続したのである。
 これが春日野道でのちに国道12号(後さらに国道8号)となり、物資搬送の動脈となるのである。彼こそ国道8号の生みの親であった。

 初の景気刺激型大型公共工事
 春日野道の開削は当初、福井の産業振興に不可欠な物流網の整備の観点から推進されたが、このとき、福井経済は松方デフレに直撃され、大不況に直面し、餓死・自殺者など貧民があふれていた。
 しかし、時の政府は政策として「貧民救助」は禁止していた。このため伊藤は春日野道工事を貧民の不況対策・雇用対策と結合させることを考え、あわせて、市街地と荒川の整備を募金と民間活力導入で実行する。彼こそ経済対策としての大型公共投資と公共投資への民間活力導入の「先駆者」であった。


 治22年前後、伊藤は、旧福井藩士で敦賀県・石川県時代の同僚であった石田磊を福井に呼び戻し、九十二銀行の支配人に据え、これらの事業から引退することになる。
 石田磊は伊藤の意思を継ぎ、後に、福井商工会議所会頭として、明治後期の福井経済を牽引することになるのである。

 

 

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本稿はFBCラジオ講座「明治福井のまちおこし」(2000年4月9日放送)を要約したものです。

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