▼ものづくり福井の原点 −−− 羽二重王国への道△
FBCラジオ講座(5月11日放送)テキスト(当日の講座の要旨です)
*事前に資料の登場人物を読まれてから講座をお聞き下さい
放送当日は一部内容に変更がある場合があります。福井商工会議所
事務局長 奥山秀範福井は明治以来「モノづくり」で生きてきたが、その原点となったのが「羽二重」である。
幕末にはすでに福井藩も奉書紬など絹織物業の振興をはかっていたが、明治四年に由利公正がヨーロッパより数種類の絹織物を持ち帰り、旧福井藩士の酒井功にこれを見せ、一層の奮闘を呼びかけたことから、本県の絹織物の改良発達が始まる。
この頃、京都府はフランスに佐倉常七など三名の伝習生を派遣するとともにジャカードとバッタン機を購入し、七年四月の京都博覧会で公開した。また翌八年一月には織工場を開設し、佐倉を教師にしてこれらの織機の使用法を一般に教授した。これを見た酒井功は敦賀県(当時は福井県ではない)勧業課に京都への伝習生派遣を請願する。
敦賀県の勧業課には、同じ福井藩士出身の伊藤真が在籍していたこともあり、細井ジュンらの県費による伝修生派遣が実現する。また翌九年七月には伊藤真は、米国留学から戻った山岡次郎から染色技術の重要性の復命を受けて、村野文次郎を染色伝習生として京都の染殿に派遣、またバッタン機二台の県費購入も実現させる。
ところが、九年八月に敦賀県が消滅し、石川県に組み入れられたことにより、福井での絹織物業の振興は、以降、旧士族を中心とする民間人の手に委ねられた。
このため、酒井や村野近良(文次郎の義父)らの士族一四人が出資して、毛矢町に「織工会社」(社長村野近良)を興し、十年四月開業にこぎつける。
明治十年代後半に入ると、桐生・足利から羽二重が米国へ輸出されはじめ、羽二重の需要が高まるなか、福井や粟田部の仲買商から羽二重輸出好況の情報がもたらされるとともに、明治十九年頃には福井にも羽二重の注文が来るようになった。
しかし、当時の福井には羽二重製織の技術は無く、このため、福井でも新技術導入の機運が起き、技術教師の選定が課題となり、業界はこの人選を村野文次郎に依頼した。
村野は恩師山岡次郎に相談し、桐生の森山芳平を紹介され、森山芳平工場の織物技術者高力直寛の招聘が決まる。翌二十年三月に高力は来福し「織工会社」で羽二重講習会が行われ、これが「羽二重王国福井」誕生のきっかけとなった。
資料/ 主な登場人物
山岡次郎 (旧福井藩士)
日本の繊維工業(染織)の父ともいうべき事績を残した明治の化学者、技官。福井藩留学生として米国で化学を修め、帰国後は大学などで教鞭をとっていたが、殖産興業に向けて技術者教育の必要性、職工養成の必要性を痛感し、東京職工学校(現東京工業大学)をはじめ次々と染織学校を創設。
さらには明治の大工場「日本織物会社」の創設を手伝い、晩年は再び官吏に戻り織物の輸出と品質改良に努めた。
村野文次郎(旧福井藩士)
羽二重王国・福井の先覚者で、自ら先進地の技術を福井に導入し、機業家としても成功した有力な業界人である。織物福井の第一歩は、明治九年の伝習生派遣に始まる。村野は洋式染色法研究のため京都府立染色伝習所へ派遣され、山岡の盟友中村喜一郎に師事、その後東京大学で化学や染色を講義していた山岡次郎に師事、帰福後、その技術普及に努めた。桐生の著名な織物事業家森山芳平と交渉し、高力直寛を福井に招き、羽二重織物の第一歩を築いたのも彼である。
伊藤真(旧福井藩士)
廃藩置県後も官吏をつとめながら、福井の殖産振興に務め、敦賀県時代には勧業掛とし織物伝習生や染色伝習生の京都派遣に重要な役割を果たす。官吏退任後、第九十二国立銀行や福井商法会議所を創設、さらに福井新聞(第一次福井新聞)を創刊し、明治前期福井経済界をリードした。
酒井功(旧福井藩士)
本県機業の開拓者。明治四年に由利公正がヨーロッパより持ち帰った絹織物を見、この改良発達に全力をあげる。敦賀県勧業課に京都への織物伝習生派遣を請願し、県費による派遣が実現する。またバッタン機二台の県費購入も実現させる。
明治十年四月には士族一四人と毛矢町に「織工会社」を興し、製織技術の改良に努めた。
佐倉常七
西陣の織匠。明治五年十一月京都府の伝習生としてフランスのリヨンに派遣され、翌六年ジャガード・バッタンなどの洋式織機を携え帰国。明治七年京都博覧会で初運転、実演を行う。後、京都府の織工場や染織学校教授となり、新織法の普及につとめた。
本県の細井ジュンにバッタンの使用法を教えたのも彼である。
森山芳平
桐生の機業家。早くから織物や染色改良に取り組み、十七年には農商務省技師山岡次郎を桐生に招いて染色法の改良に努めた。
桐生織物の名を高める一方、自身または弟子を各地に派遣して技術指導を行った。高弟高力直寛の福井派遣・羽二重講習はあまりにも有名で「羽二重王国福井」の生みの親となった。
高力直寛
明治の第一級織物技術者。羽前松山藩に生まれ、後、桐生に移り森山芳平に師事。その才が認められ、西陣の佐倉常七のもとで、ジャカード織物の習得、さらに森山の指示で、福井に赴き羽二重織を無償で講習。これが羽二重王国福井誕生のきっかけとなった。
後年、教育界に転じ東京高等工業学校(現東京工業大学)の教授として後進の育成にあたった他、織物技術の審査員なども努めた。
【テキスト追加】(印刷レジュメには含まれておりません)
細井ジュン
敦賀県庁が京都への織物伝習生の派遣を決定したとき、その伝習生に選ばれる。福井にもどってからは、毛矢町「織工会社」に技師として参加、後の福井における羽二重機業そして繊維産業発展の基礎を築いた。
中村喜一郎
舎密(化学)関係で山岡の同志。明治6年に開催されたウイーン万国博に佐野常民に同行、そのおり、染色伝授生となりドイツ、オーストリアなどで一年間洋式染法を研究、帰国後京都、八王子などで洋式染法を指導した。京都時代に村野文次郎に染織の基礎を教えた。
講師略歴…奥山 秀範(お<やま・ひでのり)
昭和二十七年一月丹生郡越前町生まれ。昭和四十九年立命館大学卒業、昭和四十九年福井商工会議所に入所、中小企業の経営相談、情報化支援に従事。金融課長、総務課長、企画室次長、商工相談所長を経て平成十三年より現職。
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